ここ数ヶ月の自分のピアノに関するつぶやきを集めてみました。
なかなかいいこと言っている。
あとは実践あるのみ。
ここ数日の練習はピアノにピアノを教えてもらっている。数小節弾くと「そうじゃないよ」と言ってくれる。「左手だけ弾いてごらん」「内声だけゆーっくり弾いて」「もっと軽く」「もっとやさしく」「そうそうそれ!」とか何十回も数小節を繰り返したりしている。このフィードバックプロセスなのかな練習
ピアノが最も得意なのは倍音の厚さだ。オクターブだけではない倍音。常に倍音を感じて弾くことだ。
如何に音の数が多かろうとテンポが速かろうと最も大切なのは汚い音は一つたりとも出さないことだ。ffは大きい音ではなくとても豊かな音なのだ。
ピアノは非情な迄に徹底的に厳しく容赦ないものだ。殆ど全てのピアノ弾きは中途半端なのだ。従って合否を決めるなどそもそも理不尽である。しかしピアノを弾く権利は万人にある。下手でもいいのだ。要は見果てぬ夢を追ってプロセスを楽しむことに尽きる。プロセスが結果なのである
ショパエチュだと意識過剰になるとショパエチュでなくなるのだ。これをショパエチュのパラドックスと呼ぶ
ピアノのレッスンはgarbage in garbage outだ。生徒がある程度弾けていないと教師もその程度の助言しかできない。指摘されないからと言ってできているということでは無い。生徒が弾ければ弾けるほど高度な指摘助言ができレッスンの質も高まる。
ピアノを弾くのは自己表現でも無ければ況して認められる為でも無い。自分を超越する為なのだ。昨日までの自分を超える。遥かに超えるのだ。誰の為でもない。自分の為でも無い。そう。そこには誰もいない。ただ音楽の世界だけがあるのだ。そこへ導かれていく
通常の市場原理はクラシック界には当て嵌まらない。新たなマーケティング戦略を要する。イノベーションが希求されている。たとえ卑俗でもボリュームゾーンに訴える実利的な効果を訴求する必要に迫られている。たとえば音楽療法に期待しているのだがエビデンスが弱いのが阻害要因だ
身もふたもない言い方をすればクラシックはペイしないのだ。一部の中流貴族の代替承認欲求に支えられたプロシューマー市場は小さい。アマチュアコンクール市場はスモールニッチに過ぎないし成長性は限定的。クラシックマニアの感度は高過ぎ排他的にならざるを得ない。
自分が考えるべきことはクラシックピアノが凋落しない方法を考えることだ。コンサートやコンクールという旧来の仕掛けでは凋落する。参加者を限定してはならない。遥かに楽に弾けるようになる手法を開発しオープンにするのはしかし既得権益の抵抗に合うだろう。そういう市場は縮小するしかない
音大出身云々ではなく音楽に対する正しいアプローチが身についているかが重要。音楽をする心身ができているか。無意識のレベルで。これは必然的に個人の短期の努力では出来ることではない
この世に神が存在することを信じる唯一の理由は音楽である。神は音楽を以て人間に弛まぬ進化を求めている。そして自分にとって音楽は目的であると同時に自己進化の手段でもある。如何に卑小な存在であるかを常に思い知らせ人を謙虚たらしめるものそれが音楽である
ショパエチュを練習すると必ず聴こえるショパンの意地悪なつぶやき「ふっ。そんなんで弾けたつもりなんかい?」:(´◦ω◦`):
本番直前の練習では完成度を追求することより客観的に点検しかつ無理が生じていないか確認することが大切だ。安心する為だけの練習にならないように留意する
つまるところ聴き手にとって演奏は好きか好きでないかの2通りの評価しかないのだ。音楽の理解とか音色の美しさとか技巧とか要素分解していいところがいくつかあっても好きになれないものは仕方がない。国際コンクールだろうが仲間内の弾き合い会だろうが同じこと。まずは自分の演奏を心がけたい
ショパンはバスラインが歌えていないといくらソプラノが美しくても貧弱で浅薄な演奏になってしまう。逆にバスがしっかりしていると響が豊かになる。無造作な左手は右手の足を引っ張る
平均律2-16フーガの2,000余の音の一つとして曖昧awkwardであってはならない。音と音との関係性は直近の縦横のみならず遠隔もありバランスが求められる。しかも固定的ではない。全てはバッハの音楽の滾る情熱を最大限表現する為に
今朝はまるで自分の意思ではなく何か大いなるものの意思によって弾かされている気がした。ああこれが音楽をするという感覚なのかと思い出した気がした
音からピアニストへ「音を出してほったらかしにしないでよ。ぼくらはまだ生きてるんだから」
ラヴァルスを4か月ぶりに弾いてみたら忘れているどころか前より弾けるのは他の曲で阻害要因が克服できたということかもしれない。バッハとショパンとメシアンのおかげ
音が少ない曲を弾かせればある一定水準以上のピアニストの実力が判然とする。ただ音高音価が合っていれば音楽になるのではない。情報量がそれでは少な過ぎるのだ。
新しい曲に手を出す状況ではないが仮に出すとしたらベートーヴェンのソナタ30番31番しか考えられない。その曲を10年かけて取り組む気があるか、それが基準だ。
自己承認はマズローの4段目。それを超えたところに達人への道の扉がある。認められたいだけでは音楽はできない
音楽とは魔法である。タネやトリックが見破られるような音楽は音楽ではない。下手な手品未満だ
音の多い曲は一つとして曖昧な音はなく、音の少ない曲は一音一音の情報量を極限まで追求する。どちらも甲乙つけ難く難しい
デジピはグランドの劣悪な代替という人は最先端のデジピのポテンシャルを知らない。たとえばトリプルディレイでディレイタイム最長にすると響のイメージが豊かになり音を大切に丁寧に出す効果がある。ハープシコードにして平均律の理解も深まる。使いようなのだ。全てはいい音楽を創り上げるために。
プロはミスからのリカバリー能力に長けている。しかしそれは音楽の流れを壊さないことが先決であって精神力やごまかしではない
ピアニストの実力を知るにはハンマークラヴィーア全楽章が最適だ。次はスクリャービンの3番ソナタかブラームスのヘンデルバリエーション
ピアノが上達するとはピアノに対してどんどん優しくなることである。初心者ほどピアノに厳しい
かなり取り組んできて上達が止まったと感じた時こそ高いステージに上る準備ができた時なのだ。そこでやめてはだめだ
音を出してから音楽ができるのではない。音楽は音が出る前から始まっているのだ
「これでいいかな」と思っているうちは本物の演奏ではない。「こうだ!」と思えないといけない
世界的と言われるコンクールを数々制覇し華々しい演奏歴を持つ演奏家の演奏を聴いてつまらなかったら「ふうん」と言っていいんだよ。それを皆すればクラシック音楽界は凋落を免れるでしょう
ピアノに向かう練習なくとも上達できる。いい音楽(ピアノに限らず)能動的に聴けばいい
fとpの違いは音量ではない空間の拡がりだ。たとえばfffは全宇宙、ppだったら湖畔といった具合に
音楽は止まらない。休符は休みではない。絶えず変化する流れ。本番で途中で止まるとかあり得ない
打鍵ではなくタッチ。ffでも打ってはいけない。様々なタッチがある。上から下とは限らない。斜めもあり引くこともある。タッチを決めるのは響き
『ぼくが生まれ変わってもし曲になるとしたらこの曲であろうというほどの存在』伊藤悠貴 #これ以上の音楽の名言はまず無いだろう
いくら楽に弾けるようになってもオートパイロットになってはいけない。時間芸術としての演奏は絶えざるフィードバックループである #ピアノの極意的な何か
練習とは意識下の自分を育成することだから植物を育てるように急には育たないが正しくやれば確実に育つ。そして変化は急に現れることもある
練習とはできないことを当り前のようにできるようにしていくこと。そうして次々に高いレベルのことができるようになっていく。毎日どんどん高みに登っていくのだ
演奏はイマジネーションと身体的運動のインテグレーションだ。インテグレートされた感覚を掴めば本番で事故など起きない確信が持てる
めったにほめない師匠が「よくなった」と言っても額面通り受け取ってはならない。前がよほどひどかったか、たまたま最近「ほめないと伸びない」とどっかで読んだからかもしれないからだ
演奏は確率論ではないから練習は成功確率を上げる為にするものではない
如何なる難曲であろうと弾ける確信がありさえすれば弾ける