コンサルタント=ピアニスト=ランナーはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストがランニングと仕事術とピアノと英語とかについて語ります

疲労とは何か

疲労について考えてみる。
疲れるというのは日本人がよく使う表現だ。日本人は疲れるという言葉をあまり否定的に使わず、むしろ肯定的に使っているとさえ思う。
英語にはお疲れ様に相当する表現がない。
一仕事終えた後にかける言葉にしても、well doneとかgood jobとか言うにしても、そこに疲れの意味はない。
決してYou must be tiredと言っているのではなく、ねぎらい(労い)の意を込めているに過ぎない。

さて、医学的には、疲労は末梢性疲労と中枢性疲労に二分されるそうで、末梢性疲労は身体的な疲労である。
と言われれば判ったような気になるが、果たしてそう峻別できるものなのであろうか。
平日、仕事帰りにジムに行くことが多いのだが、クライアントミーティングへの移動や作業で身体的にも精神的にも疲れていても、ジムで1時間汗をかくと、何れの疲労も感じなくなっている。
現代人、特に頭脳労働者は、交感神経優位になっていることが多いという話を聞いたことがあるが、これは現代人に限ったことなのか少々疑わしい。古代でも、狩猟に出かけ、常に生命の脅威にさらされていた我々の祖先も交感神経優位になってはいなかったのだろうか・・・
これは真偽を確認する必要はあるのだが、確かに緊張し交感神経が優位になっている状態が長く続けば疲労を感じるだろうというのは感覚的には納得できることではある。
そのような状態で運動し汗をかけば、交感神経優位の状態から解放され、疲労を感じなくなるのかもしれないというのが、自分の感覚に基づく仮説だが、運動をすることによって何らかのホルモン(ドーパミンセロトニン?)の分泌が促され、疲労を感じなくなるのかもしれない。
ドーパミンというものが快楽を司るホルモンであるというドーパミン仮説を提唱する脳科学者がいた気がするが、どんなに疲れている時でも、なにかとてもうれしい報せが届くと、疲労感など吹っ飛んでしまうということはないだろうか。もっともこれは中枢性疲労に限定した仮説ではある。
しかしそもそも疲労をキレイに二分して考えることが正しいのであろうか。
いろいろ学術論文をあたってみたが、自分の疑問に答えてくれる研究成果は見つかっていない。
クリアな解明と説明が待たれる。

キャラ評論家が選ぶ秀逸キャラベスト5

実は大変キャラには詳しくかつ見る目も厳しいので、ほとんどのキャラは不合格である。
しかし数少ないが合格キャラもあり、その中にはきわめて秀逸なものがある。
そもそも合格キャラの母集団が小さいので、あえてベスト5を選ぶのはそう難しくはない。
現時点での秀逸キャラベスト5を紹介しよう。
いずれも説明不要なオリジナリティが高くキャラクター設定も考え抜かれた稀有な存在である。神々しさすら感じる。

ハコイヌ
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ドアラ

猫ピッチャー

ひこにゃん
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みかん

これらの一角に食い込む秀逸なキャラの登場に今後も期待したい。

なお、ベスト5には加われなかったが、最近のキャラのうち独創性の高さで評価したいキャラが一人だけいらっしゃる。
「呉氏」である。
twitter.com

ショパン前奏曲集作品28(119)19番の難しさの本質

アナリーゼを終えた後、3月からピアノに向かって取り組んでいる作品28だが、19番は依然として自分にとっての難曲最高峰の地位を譲らない。
そして、レッスンを受けた師匠方を含め、3人の尊敬に値するピアニスト達が口を揃えて19番はとりわけ難曲だと仰る。

その難しさの本質をあらためて考えてみた。
楽譜をみると至ってシンプルである。両手とも三連符の連続である。
音型に起因する難しさの本質の一つは開離分散和音であることであり、よほど大きな手の持ち主でない限り、人差し指と小指でオクターブ届かない限り、跳躍が免れない箇所が至る所にあり、そしていくら大きな手の持ち主であっても跳躍をせざるを得ない箇所がある。

そして、この曲は決してゆっくりした曲ではない。作曲者はVivaceとしている。Vivaceは「軽快に」という意味であるので、決して絶対的な速度指定ではないとは言え、曲想から言って速く弾くのが自然である。

それでありながら、あくまでソプラノでうたわなければならず、内声はppできわめて軽く、かつバスラインも歌である。

ポリフォニックな音楽であり、エチュード10-11に通ずるところがある。


和音の変化、ゆらぎもきわめて重要な要素である。これを表現すること無くしては単調なメカニカルな曲になってしまう。

コンクールに落ちて思うこと

この週末はピアノコンクールの1次予選を受けてきました。
友人が多数参加するコンクールで、去年は受けませんでしたが、今年は申し込んでみました。
1次予選は演奏時間5分以内ということなのですが、ちょうど収まる曲が無いので、今年からアナリーゼを重ね3月から練習してきたショパンプレリュードから抜粋して弾くことにしました。
今までレッスンを受け研究して何度も本番に出した曲はありますが、勝ちに行くことより、全曲を磨きたいショパン作品28から抜粋という不本意な選曲にしました。
勝ちに行くのではないとは言え、聴く人に不快な演奏になっては本意ではないので、仕事が忙しく、またあまりじっくりレッスン受けることもままならない中、勉強会などで弾かせていただきつつなんとか当日朝まで自分にしては真面目に準備を重ねました。
しかし12番はやはりコントロールが難しく、不安定な演奏になってしまったことは今後の課題です。12番はエチュード10-2のようなテクニックが求められます。
数日とは言え弾けない曲をなんとか本番で弾くためにさまざまな工夫や自分の録画を繰り返し冷静に分析することで学んだことは多く、あらためて自分に何が足りなくて、何が逆に強みなのかも客観的に把握し改善し、「良い演奏」に確実に近づくためのPDCAの回し方を初めて自分のものとできるきっかけを得たことは、今回コンクールに参加した大きな意義だと思います。
最大の学びは、「こう弾いているつもり」が「つもり」にとどまっている、或いはやり過ぎていることをどう修正するか、です。
ラインの出し方、正確な拍感、対位法的な扱い、デュナーミク、色彩の変化、カデンツの閉じ方、フレーズ感、響きのバランス、アゴーギク、そして何より音色の美しさ、などなど音楽として必要な要素を全て満たすのは時に(いや多くの場合)相反する(弾き手の都合で)場合があり、決して自分の都合で音楽を規定してしまってはならない。
まずは「楽譜どおり」(必ずしも全てが書かれてはいない)ことを目標に改善を続けること。
自分が選んでいる曲はいずれも、作曲家によらず、楽譜どおり弾くことができたならば、それはすばらしい音楽ばかり。
もし自分が聴いても「なんと美しい」とならなければ、どこかに必ず作曲家の意図と指示を守っていないところがあるのです。
そして、コンクールで弾くか否かにかかわらず、再現性を担保すること。「今回は弾けなかったけどこれはたまたまで次は弾けるかも」ではいけない。演奏は確率論ではない。それでは無責任なのです。
もう一つ大切なことは、「たかがピアノ」と開き直ることです。これはピアノを甘くみるということとは違います。そもそもピアノ演奏というのはきわめて高度な知性と身体運動と感覚の統合なのです。弾けなくて当たり前。ましてコンクールの結果など生命の危機を感じるものでもなんでもない。今弾けないことや結果に執着してはいけない。執着は客観的な自己把握の障害となるからです。
そして最後に思うのは、プロかアマに関係なく、どんな演奏からも学ぶことがあるということ。今回のコンクールでもすべての演奏から何かしら学ぶものがありました。決していい演奏とは思えない演奏にもどこかいいところがあり、自分を見る鏡となる箇所が必ずあります。これも良い演奏に近づくプロセスの一部なのです。
今さらながらすでに多くの先輩が気づいていることばかりかと思うものの、あらためて表面的にではなく、自分のこととしてようやく気づけたことは良かったと思います。

商品企画が雌雄を決する世界

昨年より社外で主宰している研究会のテーマは、商品開発プロセスの完全デジタル化が実現した社会で何が起きるのか、特に日本の製造業が危機をどう回避するのか(そもそもできるのか)、である。

我々の現時点での仮説は、商品企画が雌雄を決する(競合優位性を獲得する)ということである。

つまり、「何を作るか」が「どう作るか」で価値が決まり、より重要になるということである。

考えてみればこれは当たり前のことである。消費者からすれば、どう作ったかはどうでもいいのであって、欲しいものがリーズナブルな値段でできるだけ手軽に手に入ることを消費者は常に望んでいるのである。

ところが実際の製造業の業界においては、参入障壁というものがある。

たとえば自動車を作るにしても、生産設備と人員が必要だ。生産設備と人員には巨額の投資が必要である。そして、規模の経済ゆえに、大規模な投資をして大量に生産するほど、価格競争力は高まる。

自動車はコンセプト開発から、設計、試作、部品の製造あるいは調達、組立、検査までいずれもとてもコストがかかる代物である。

したがって、誰でもが生産に参入できるものではなくなる。そこそこのデザインでそこそこの機能であっても、それなりの品質を確保しそれなりのコストに抑えられれば商売になる。

すごくシンプルに言ってしまえばこれが今までの自動車やその他製造業の世界である。

ところが、もしコンセプトづくりから、それが実際に自動車として形になり、路上を走行する性能まで完全にデジタルの世界でシミュレーションできてしまったらどうなるだろうか。しかも、これまでは実車で行なっていた検査が、当局から、「シミュレーションデータがあればOKですよ」と言われたらどうなるだろうか。

しかも、今の自動車メーカーより、遥かにデザインセンスが良いデザイナーがそのようなフルデジタルのシミュレータを使ったとしたら?

しかもどんなデザインの車であれば消費者が飛びつくかというマーケティングもデジタル(AIがビッグデータを用いてということだが)でできるとなったらどうだろうか。

そして、実車を作るだけだったら別に中国だろうがロシアだろうがインドだろうがどこでもできるとなったらどうだろうか。

今の巨大自動車メーカーの存在意義はどうなるのか。

そして、この様なデジタル化は既にかなり進んでいるのである。

危機感を抱かざるを得ない。

それが研究会を立ち上げた強い動機である。

1マイルレースの醍醐味

陸上のトラック競技で人気競技と言えば何といっても100mだが、欧米では5,000mや1,500mといった中長距離走も人気である。
1,500mより少し長い1マイルレース(1,609m)は、度量衡でヤード・ポンド法を採用している国(アメリカ等)では実は人気レースだったりする。

今でこそ1マイルの世界記録は3分43秒余と(エルゲルージが20年前に出した驚異的な世界記録)と、4分を軽く切っているが(ちなみに日本記録は23年前につくられた3分58秒余)、かつて1マイルを4分未満で走るというのは、かつて100mで10秒を切る、あるいはエベレスト登頂と同じくらい、人類にとって未踏の世界の一つとされたものであった。

1マイル(1,609m)を3分43秒で走るということは、平均で100mを14秒を切るスピードで走るということである。
走ってみるとわかるが、普通の人は100mで14秒を切るのも楽ではない。
それでトラックを4周するのである。
実際にみると感動的ですら、いや畏怖ですらある。
たとえばこの動画をみていただきたい。
www.youtube.com


そして、かつて世界屈指のランナー達が、1マイル4分を目指して激しく熱く燃えたことがあった。
この挑戦が1冊の本にまとめられている。

パーフェクトマイル―1マイル4分の壁に挑んだアスリート 単行本 – 2004/7
ニール バスコム (著), Neal Bascomb (原著), 松本 剛史 (翻訳)
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胸が熱くなる1冊である。

恐怖症

誰しも多かれ少なかれ恐怖症はあると思う。

何かを異常に恐れること。なぜと問われても怖いものは怖いのだ。

自分の場合は3つある。

 

一つは閉所恐怖症。エレベーターとか無窓居室(特に面積の小さい部屋)は怖い。脂汗をかき激しい動悸がするというほどではないものの、なんとなく怖い。

タワーマンションには決して住めない

 

二つ目は渋滞恐怖症。昨年の冬に親戚の家に法事で向かう途中、事故で高速が大渋滞になった。あの時は激しい動悸、そして冬なのに大汗をかいた。

極力電車や飛行機を使いたい。飛行機は極度の閉所恐怖症の人には乗れないが、自分の場合はそこまでではない。

 

三つ目は先端恐怖症。キリとか包丁とかナイフとかが怖い。ゾクゾクっとする。

 

そもそも恐怖症とはなぜ存在するのか。

恐怖症はICD(国際疾病分類)では不安障害に分類される疾病だそうだ。

治療法としては行動療法があるぐらいで、あとは時間の経過と共に軽減・消失を待つしかないらしい。

しかし近年では精神疾患の治療にデジタルテクノロジーが応用され、臨床的に効果を認められているものもあるので、VRやAR、MRを用いて治療可能なのではなかろうかと思ったりもする。

日常生活に支障を来すほど重症なのであれば、デジタルセラピーに期待が持てるのではないだろうか。

臨床的に用いるものではなくとも、自分のように受診するほどではないが恐怖症がある人にとっては、有料でも使ってみたいと思うので市場はある筈だが。

井上ひさしさんの言葉

戦略コンサル時代の友人で、今は学者としてまた政策プロデューサーとして八面六臂の活躍をしている彼が先日SNS座右の銘のひとつとして井上ひさしさんの言葉を引用していた。

むずかしいことをやさしく
やさしいことをふかく
ふかいことをおもしろく
おもしろいことをまじめに
まじめなことをゆかいに
そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

「むずかしいことをやさしく」だけでも言うは易く行うは難しであるが、コンサルタントはまずこれができなければならない。
そしてこれには上記のように続きがあるのである。

これを自分の仕事に当てはめてみると、やるべきことが見えてくる
むずかしいことをやさしく、とは、複雑な事業環境のダイナミクスの本質を捉え、テクニカルな言葉ではなく、相手に判ることで説明する。
そして、その判りやすい説明は実に含蓄の深いものでなければならない。すなわち、単に単純化したことや、ありきたりのパターンではなく、洞察が無ければならない。
そしてその洞察を、決して批判的になったりしないよう、相手に興味関心を持ってもらうように伝える。
かといって奇を衒ったりするのではなく、あくまで真摯に誠実に伝えるのである。
さらに言えば、それを伝えることで相手も自分もハッピーになれるように。もっともっとハッピーになれるように。

これは音楽においても(演奏でも作曲でも)言えることだと思う。

井上ひさしさんの言葉はやさしくふかくそしてとてもおもしろい。

SFの新たなジャンルを築いた名作

自分にとってSF(サイエンス・フィクション)は単なるエンターテインメントを超える意味を持っている。
今も現代の我々に勇気を与える名言「人間が想像できることは人間が実現できる」と言ったのは確かH.G.ウェルズだと思ったが、SFは人間のイマジネーションのフロンティア(最前線)であり、物理学の進歩に欠かせない仮説の構築にも資するし、新たなテクノロジーの生みの親ともなっている、人類の進歩をドライブするものであるとみなしてもいる。

雑誌kotobaの2017年秋号の特集には、各界の有識者が読むべき10冊をそれぞれ挙げているが、SFについては書評家の大森望さんが、「SFの新たなジャンルを築いた名作の本棚」として、必読の名作10冊を挙げている。
自分はこの中のいくつかは読んでいるが、読んでいないものもあり、早速Amazonで購入して読んでいる。

以下、大森さんが挙げた珠玉の10冊である。特に「あなたの人生の物語」は読んでみたい。

フランケンシュタイン』メアリ・シェリー著、森下弓子訳(創元推理文庫)
https://amzn.to/2G5dPZX
ホラーと思われがちだが、実は科学技術の暴走を描く近代SFの嚆矢(こうし)。

『地球の長い午後』ブライアン・W・オールディス伊藤典夫訳 (ハヤカワ文庫SF)
https://amzn.to/2S6KtPz
変貌した遠未来世界を幻視し、椎名誠貴志祐介にも影響を与えた。

『タイムマシン』H・G・ウェルズ著、池央耿訳(光文社古典新訳文庫ほか)
https://amzn.to/2XEHcNB
時間旅行という古来の人類の夢に“航時機”という形を与えた。

『結晶世界』J・G・バラード著、中村保男訳(創元SF文庫)
https://amzn.to/2JyI9Nl
外宇宙から内宇宙への転進を説くニューウェーヴSF提唱者の代表作。

幼年期の終わり』、アーサー・C・クラーク著、池田真紀子訳(光文社古典新訳文庫ほか)
https://amzn.to/2G5Cb5X
異星人とのファースト・コンタクト、人類の進化のヴィジョンを描く。

ニューロマンサーウィリアム・ギブスン著、黒丸尚訳(ハヤカワ文庫SF)
https://amzn.to/2Jp2g1G
ブームを起こし、現代SFのモードを変えたサイバーパンクの頂点。

ソラリススタニスワフ・レム著、沼野充義訳(ハヤカワ文庫SF ほか)
https://amzn.to/2JpbHhJ
人間に理解できない異質な知性をリアルに構築し、SFを革新した。

万物理論グレッグ・イーガン著、山岸真訳(創元SF文庫)
https://amzn.to/2xCXmrn
宇宙のすべてを説明する究極の科学理論がもたらす衝撃の未来。

あなたの人生の物語テッド・チャン著、浅倉久志ほか訳(ハヤカワ文庫SF)
https://amzn.to/2G4o2G0
現代SFの頂点を極める短編集。表題作は映画「メッセージ」原作。

『闇の左手』アーシュラ・K・ル・グィン著、小尾芙佐訳 (ハヤカワ文庫SF)
https://amzn.to/2JyVtRX
両性具有の異星人との旅を通じ、性差と異文化を正面から考察する。

常識を疑え

常識とは何か。
一般的に正しいとみなされること。
知っていて当たり前とされること。
そう。常識はまず知っていなければならない。
その上で疑ってみる。
ただし、ただ否定するだけではない。
なぜそれが常識なのかその理由を理解することだ。
皆がそう言うからそうなのだ、では単なる思考停止にとどまる。
常識から言って不可能とされること、あり得ないとされることにこそチャンスがあるとまず仮説を構築する。
新たな価値は常にそこが起点である。
この姿勢を貫きたい。