コンサルタント=ピアニスト=ランナーはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストがランニングと仕事術とピアノと英語とかについて語ります

小糠雨

小糠雨(こぬかあめ)という言葉を知った。
音を立てず静かに降る、糠のようなとても細かい雨。「糠雨」とも言うとのこと。
とても嫌な、苦しい夢を見て2時前に起きたら、細かい雨が音も立てずに降っている。
特に季節は限定しないとのこと。
ほんとに細かい雨。
ほとんど無風なのでかろうじて直線を保とうとするが、微風でも簡単に流れてしまう雨。
驟雨とは対極的な細い細かいか弱い雨。
雨は決して嫌いではない。
どのような雨にも表情がある。もちろんその表情は見るものが見て感じて解釈するものではある。
雨自身が何かを考えている訳でも何かを訴えている訳でもない。
と言っている矢先から雨を擬人化している自分がいまここにいる。
丑三つ時の小糠雨内省を促す。

戦略コンサルタント的ピアノ上達法(1)

かつてなく真剣にピアノ上達について考え試行している。
戦略コンサルタントならではのアプローチを今までしてこなかったところに盲点があった。
いや、正確には部分的には実施していたのであるが、徹底していたかと言えばまったくそうではない。
天賦の才能とか資質とか練習量とかそういうことに帰着させるのではなく、ビジネスにおける戦略的な事業価値向上の観点で如何に効率的にとして最も効果的に上達するかを考える。
王道のアプローチは、企業の成長戦略の策定アプローチである。
①事業環境を3C(自社、市場、競合)の観点で捉え、
②As Is(現状)を客観的かつ正確に分析し、
③To Be(あるべき姿、ありたい姿)を描き、
④As IsとTo Beのギャップを埋めるには如何なる事業モデルを構築するか
⑤事業モデルの遂行に必要なケイパビリティをどう補完するか、そして
⑥それらを施策に落とし込み
⑦実行し、進捗をモニタリングし必要に応じ戦略・施策を修正する(このサイクルを速くする)、
これだけである。
これをピアノ演奏に関して具体化するとどうなるか。
①は自社はもちろん自分であるが、市場は言うまでもなく聴き手であり、競合は他の音楽家(ピアニストに限らない)である。最も重要なのは市場が何を求めるか、どのような演奏に価値を認めるか、である。クラシック音楽であれば、楽曲は西洋音楽の歴史においてどのような発展をたどり、作曲家が何を意図してどのような語法を用いてその楽曲を作曲したのかを理解しておくことは必須である。優れた楽曲であれば、楽譜に必ずしも書いていないことであっても、守るべきルールがあり、単純に見える楽曲であっても、それを実際に演奏行為に移すことは簡単ではない。そして、自分はなぜその楽曲を演奏したいと思うのか、その楽曲の演奏を通じて自分の世界観をどう伝えたいのか、というところに「自分」が入ってくる。そこには自分の得意不得意も入ってくる。戦略の境界条件を規定するものであり、戦略とは「捨てること」であるから、ただ弾きたい曲を弾けば良いというものではなく、あくまで市場がどういう演奏を求めるのか、自分がそういう演奏ができる可能性があるのか、を②以降で行なう。
次に、②であるが、これが最も難しいところであり、改善の余地があるところである。レッスンで師匠に指摘してもらうのもよいし、コンクールでも講評を戴ける場合もある。決して批判ではなく、建設的な視点・意見として虚心坦懐に受け止めることが必要である。これがなかなか難しい。どうしても自分の解釈が入りフィルターをかけたり、過度にネガティブになってしまう場合もある。逆にほめられたからと言って調子に乗ってもいけない。

【良書チェック】データ・ドリブン・エコノミー

主宰している社外研究会のテーマに直接関連する書籍を発見した。これはチェック必須である。

データ・ドリブン・エコノミー デジタルがすべての企業・産業・社会を変革する 単行本(ソフトカバー) – 2019/4/4 森川 博之 (著)
https://amzn.to/2xTuew2

著者は東大工学系大学院教授の森川先生。最近デジタル・エコノミーについて各誌に寄稿されている方である。
ジャーナリズムで喧伝され、データ経済、データエコノミー、デジタル・エコノミーなど定義が曖昧なまま称されているが、森川氏は「はじめに」で用語と定義をこう書かれている(そう、定義は重要)。

データ・ドリブン・エコノミー(データ駆動型経済)とは、リアルな世界から集めたデータが新たな価値を生み出し、あらゆる企業・産業・社会を変革していく一連の経済活動

そしてこの定義に先立ち、ここにおいて主役であるのはあくまでも「リアルなデータ」であるとも言われている。

現時点であたかも世界が激変するように巷間では言われているが、森川氏はそう単純に決めつけてはいけないと注意を喚起している。
データ・ドリブン・エコノミーは急に立ち上がったものでも、また完成したものでもなんでもなく、過去20年の「助走期間」を得て、これから「飛翔」していくが、どのように変わっていくかは予見不可能である、と。
そのとおりだと思う。
テクノロジーに関しては、飛行機も、電話も、蓄音機も、インターネットも携帯電話も、かつてそれが世に浸透し生活を変える以前は、的外れな予測が支配的だったものばかりだ。
だからこそ「常識を疑え」という。先日の自分の投稿に通ずる。森川氏と一度議論してみたい。

疲労とは何か

疲労について考えてみる。
疲れるというのは日本人がよく使う表現だ。日本人は疲れるという言葉をあまり否定的に使わず、むしろ肯定的に使っているとさえ思う。
英語にはお疲れ様に相当する表現がない。
一仕事終えた後にかける言葉にしても、well doneとかgood jobとか言うにしても、そこに疲れの意味はない。
決してYou must be tiredと言っているのではなく、ねぎらい(労い)の意を込めているに過ぎない。

さて、医学的には、疲労は末梢性疲労と中枢性疲労に二分されるそうで、末梢性疲労は身体的な疲労である。
と言われれば判ったような気になるが、果たしてそう峻別できるものなのであろうか。
平日、仕事帰りにジムに行くことが多いのだが、クライアントミーティングへの移動や作業で身体的にも精神的にも疲れていても、ジムで1時間汗をかくと、何れの疲労も感じなくなっている。
現代人、特に頭脳労働者は、交感神経優位になっていることが多いという話を聞いたことがあるが、これは現代人に限ったことなのか少々疑わしい。古代でも、狩猟に出かけ、常に生命の脅威にさらされていた我々の祖先も交感神経優位になってはいなかったのだろうか・・・
これは真偽を確認する必要はあるのだが、確かに緊張し交感神経が優位になっている状態が長く続けば疲労を感じるだろうというのは感覚的には納得できることではある。
そのような状態で運動し汗をかけば、交感神経優位の状態から解放され、疲労を感じなくなるのかもしれないというのが、自分の感覚に基づく仮説だが、運動をすることによって何らかのホルモン(ドーパミンセロトニン?)の分泌が促され、疲労を感じなくなるのかもしれない。
ドーパミンというものが快楽を司るホルモンであるというドーパミン仮説を提唱する脳科学者がいた気がするが、どんなに疲れている時でも、なにかとてもうれしい報せが届くと、疲労感など吹っ飛んでしまうということはないだろうか。もっともこれは中枢性疲労に限定した仮説ではある。
しかしそもそも疲労をキレイに二分して考えることが正しいのであろうか。
いろいろ学術論文をあたってみたが、自分の疑問に答えてくれる研究成果は見つかっていない。
クリアな解明と説明が待たれる。

キャラ評論家が選ぶ秀逸キャラベスト5

実は大変キャラには詳しくかつ見る目も厳しいので、ほとんどのキャラは不合格である。
しかし数少ないが合格キャラもあり、その中にはきわめて秀逸なものがある。
そもそも合格キャラの母集団が小さいので、あえてベスト5を選ぶのはそう難しくはない。
現時点での秀逸キャラベスト5を紹介しよう。
いずれも説明不要なオリジナリティが高くキャラクター設定も考え抜かれた稀有な存在である。神々しさすら感じる。

ハコイヌ
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ドアラ

猫ピッチャー

ひこにゃん
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みかん

これらの一角に食い込む秀逸なキャラの登場に今後も期待したい。

なお、ベスト5には加われなかったが、最近のキャラのうち独創性の高さで評価したいキャラが一人だけいらっしゃる。
「呉氏」である。
twitter.com

ショパン前奏曲集作品28(119)19番の難しさの本質

アナリーゼを終えた後、3月からピアノに向かって取り組んでいる作品28だが、19番は依然として自分にとっての難曲最高峰の地位を譲らない。
そして、レッスンを受けた師匠方を含め、3人の尊敬に値するピアニスト達が口を揃えて19番はとりわけ難曲だと仰る。

その難しさの本質をあらためて考えてみた。
楽譜をみると至ってシンプルである。両手とも三連符の連続である。
音型に起因する難しさの本質の一つは開離分散和音であることであり、よほど大きな手の持ち主でない限り、人差し指と小指でオクターブ届かない限り、跳躍が免れない箇所が至る所にあり、そしていくら大きな手の持ち主であっても跳躍をせざるを得ない箇所がある。

そして、この曲は決してゆっくりした曲ではない。作曲者はVivaceとしている。Vivaceは「軽快に」という意味であるので、決して絶対的な速度指定ではないとは言え、曲想から言って速く弾くのが自然である。

それでありながら、あくまでソプラノでうたわなければならず、内声はppできわめて軽く、かつバスラインも歌である。

ポリフォニックな音楽であり、エチュード10-11に通ずるところがある。


和音の変化、ゆらぎもきわめて重要な要素である。これを表現すること無くしては単調なメカニカルな曲になってしまう。

コンクールに落ちて思うこと

この週末はピアノコンクールの1次予選を受けてきました。
友人が多数参加するコンクールで、去年は受けませんでしたが、今年は申し込んでみました。
1次予選は演奏時間5分以内ということなのですが、ちょうど収まる曲が無いので、今年からアナリーゼを重ね3月から練習してきたショパンプレリュードから抜粋して弾くことにしました。
今までレッスンを受け研究して何度も本番に出した曲はありますが、勝ちに行くことより、全曲を磨きたいショパン作品28から抜粋という不本意な選曲にしました。
勝ちに行くのではないとは言え、聴く人に不快な演奏になっては本意ではないので、仕事が忙しく、またあまりじっくりレッスン受けることもままならない中、勉強会などで弾かせていただきつつなんとか当日朝まで自分にしては真面目に準備を重ねました。
しかし12番はやはりコントロールが難しく、不安定な演奏になってしまったことは今後の課題です。12番はエチュード10-2のようなテクニックが求められます。
数日とは言え弾けない曲をなんとか本番で弾くためにさまざまな工夫や自分の録画を繰り返し冷静に分析することで学んだことは多く、あらためて自分に何が足りなくて、何が逆に強みなのかも客観的に把握し改善し、「良い演奏」に確実に近づくためのPDCAの回し方を初めて自分のものとできるきっかけを得たことは、今回コンクールに参加した大きな意義だと思います。
最大の学びは、「こう弾いているつもり」が「つもり」にとどまっている、或いはやり過ぎていることをどう修正するか、です。
ラインの出し方、正確な拍感、対位法的な扱い、デュナーミク、色彩の変化、カデンツの閉じ方、フレーズ感、響きのバランス、アゴーギク、そして何より音色の美しさ、などなど音楽として必要な要素を全て満たすのは時に(いや多くの場合)相反する(弾き手の都合で)場合があり、決して自分の都合で音楽を規定してしまってはならない。
まずは「楽譜どおり」(必ずしも全てが書かれてはいない)ことを目標に改善を続けること。
自分が選んでいる曲はいずれも、作曲家によらず、楽譜どおり弾くことができたならば、それはすばらしい音楽ばかり。
もし自分が聴いても「なんと美しい」とならなければ、どこかに必ず作曲家の意図と指示を守っていないところがあるのです。
そして、コンクールで弾くか否かにかかわらず、再現性を担保すること。「今回は弾けなかったけどこれはたまたまで次は弾けるかも」ではいけない。演奏は確率論ではない。それでは無責任なのです。
もう一つ大切なことは、「たかがピアノ」と開き直ることです。これはピアノを甘くみるということとは違います。そもそもピアノ演奏というのはきわめて高度な知性と身体運動と感覚の統合なのです。弾けなくて当たり前。ましてコンクールの結果など生命の危機を感じるものでもなんでもない。今弾けないことや結果に執着してはいけない。執着は客観的な自己把握の障害となるからです。
そして最後に思うのは、プロかアマに関係なく、どんな演奏からも学ぶことがあるということ。今回のコンクールでもすべての演奏から何かしら学ぶものがありました。決していい演奏とは思えない演奏にもどこかいいところがあり、自分を見る鏡となる箇所が必ずあります。これも良い演奏に近づくプロセスの一部なのです。
今さらながらすでに多くの先輩が気づいていることばかりかと思うものの、あらためて表面的にではなく、自分のこととしてようやく気づけたことは良かったと思います。

商品企画が雌雄を決する世界

昨年より社外で主宰している研究会のテーマは、商品開発プロセスの完全デジタル化が実現した社会で何が起きるのか、特に日本の製造業が危機をどう回避するのか(そもそもできるのか)、である。

我々の現時点での仮説は、商品企画が雌雄を決する(競合優位性を獲得する)ということである。

つまり、「何を作るか」が「どう作るか」で価値が決まり、より重要になるということである。

考えてみればこれは当たり前のことである。消費者からすれば、どう作ったかはどうでもいいのであって、欲しいものがリーズナブルな値段でできるだけ手軽に手に入ることを消費者は常に望んでいるのである。

ところが実際の製造業の業界においては、参入障壁というものがある。

たとえば自動車を作るにしても、生産設備と人員が必要だ。生産設備と人員には巨額の投資が必要である。そして、規模の経済ゆえに、大規模な投資をして大量に生産するほど、価格競争力は高まる。

自動車はコンセプト開発から、設計、試作、部品の製造あるいは調達、組立、検査までいずれもとてもコストがかかる代物である。

したがって、誰でもが生産に参入できるものではなくなる。そこそこのデザインでそこそこの機能であっても、それなりの品質を確保しそれなりのコストに抑えられれば商売になる。

すごくシンプルに言ってしまえばこれが今までの自動車やその他製造業の世界である。

ところが、もしコンセプトづくりから、それが実際に自動車として形になり、路上を走行する性能まで完全にデジタルの世界でシミュレーションできてしまったらどうなるだろうか。しかも、これまでは実車で行なっていた検査が、当局から、「シミュレーションデータがあればOKですよ」と言われたらどうなるだろうか。

しかも、今の自動車メーカーより、遥かにデザインセンスが良いデザイナーがそのようなフルデジタルのシミュレータを使ったとしたら?

しかもどんなデザインの車であれば消費者が飛びつくかというマーケティングもデジタル(AIがビッグデータを用いてということだが)でできるとなったらどうだろうか。

そして、実車を作るだけだったら別に中国だろうがロシアだろうがインドだろうがどこでもできるとなったらどうだろうか。

今の巨大自動車メーカーの存在意義はどうなるのか。

そして、この様なデジタル化は既にかなり進んでいるのである。

危機感を抱かざるを得ない。

それが研究会を立ち上げた強い動機である。

1マイルレースの醍醐味

陸上のトラック競技で人気競技と言えば何といっても100mだが、欧米では5,000mや1,500mといった中長距離走も人気である。
1,500mより少し長い1マイルレース(1,609m)は、度量衡でヤード・ポンド法を採用している国(アメリカ等)では実は人気レースだったりする。

今でこそ1マイルの世界記録は3分43秒余と(エルゲルージが20年前に出した驚異的な世界記録)と、4分を軽く切っているが(ちなみに日本記録は23年前につくられた3分58秒余)、かつて1マイルを4分未満で走るというのは、かつて100mで10秒を切る、あるいはエベレスト登頂と同じくらい、人類にとって未踏の世界の一つとされたものであった。

1マイル(1,609m)を3分43秒で走るということは、平均で100mを14秒を切るスピードで走るということである。
走ってみるとわかるが、普通の人は100mで14秒を切るのも楽ではない。
それでトラックを4周するのである。
実際にみると感動的ですら、いや畏怖ですらある。
たとえばこの動画をみていただきたい。
www.youtube.com


そして、かつて世界屈指のランナー達が、1マイル4分を目指して激しく熱く燃えたことがあった。
この挑戦が1冊の本にまとめられている。

パーフェクトマイル―1マイル4分の壁に挑んだアスリート 単行本 – 2004/7
ニール バスコム (著), Neal Bascomb (原著), 松本 剛史 (翻訳)
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胸が熱くなる1冊である。

恐怖症

誰しも多かれ少なかれ恐怖症はあると思う。

何かを異常に恐れること。なぜと問われても怖いものは怖いのだ。

自分の場合は3つある。

 

一つは閉所恐怖症。エレベーターとか無窓居室(特に面積の小さい部屋)は怖い。脂汗をかき激しい動悸がするというほどではないものの、なんとなく怖い。

タワーマンションには決して住めない

 

二つ目は渋滞恐怖症。昨年の冬に親戚の家に法事で向かう途中、事故で高速が大渋滞になった。あの時は激しい動悸、そして冬なのに大汗をかいた。

極力電車や飛行機を使いたい。飛行機は極度の閉所恐怖症の人には乗れないが、自分の場合はそこまでではない。

 

三つ目は先端恐怖症。キリとか包丁とかナイフとかが怖い。ゾクゾクっとする。

 

そもそも恐怖症とはなぜ存在するのか。

恐怖症はICD(国際疾病分類)では不安障害に分類される疾病だそうだ。

治療法としては行動療法があるぐらいで、あとは時間の経過と共に軽減・消失を待つしかないらしい。

しかし近年では精神疾患の治療にデジタルテクノロジーが応用され、臨床的に効果を認められているものもあるので、VRやAR、MRを用いて治療可能なのではなかろうかと思ったりもする。

日常生活に支障を来すほど重症なのであれば、デジタルセラピーに期待が持てるのではないだろうか。

臨床的に用いるものではなくとも、自分のように受診するほどではないが恐怖症がある人にとっては、有料でも使ってみたいと思うので市場はある筈だが。