コンサルタント=ピアニスト=ランナーはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストがランニングと仕事術とピアノと英語とかについて語ります

自動車市場と業界はどう変わるのか

いま監督しているある大手日本企業のプロジェクトでは、グローバル自動車市場・業界がどう変わるのかが一つの大きな論点である。
これまでにも大手自動車メーカーや自動車部品メーカーをクライアントとし、また現時点でも社外の有識者を集めてVirtual Engineering研究会を立上げ主宰している立場として、そして戦略コンサルタントとしての見識とロジックを以て、仮説を論じてみる。

人口動態に起因する経済の成熟化、自動車に求められる要求の高度化(経済性、安全性、信頼性、耐久性; 消費者と規制の両面)、先端テクノロジー(IoT, アナリティクス, 新規材料等)の進展と、その活用である部品の進化、設計開発生産の進化、工作機械メーカーの努力により、矛盾が次々に解決され、また自動車OEMや部品メーカーといった従来の自動車業界メインプレイヤーに加え、IT・物流・不動産関連企業による新たなサービスの展開、そして新たな動きを後押しする政府や公的機関の動きが複合的に自動車市場・業界の枠を超えてモビリティ社会形成を推進する

世界的にシェアリングエコノミーの台頭を背景とし、自動車に関連する消費者の本質的に多様な根源的な要求(所有 vs 利用、嗜好の違い等)が顕在化、自動車業界を支配してきた大量生産に対するアンチテーゼであるpersonalizationが実現していく。
オンラインショップで買う頻度が増え、クルマは人より物の移動にシフトしつつあるという意見もあるが、クルマは必ずしも買物専用ではないし、米国ですらオンラインショップでの購買はせいぜい購入総額の1割程度でしかないので、大きな影響となるには至っていない。公共機関が整備され至便な大都市に生活している限りではクルマの必要性は低くとも、少し地方に行けばクルマは安価で便利な移動手段であるからだ。

内燃機関主体であった自動車製造側に大きな変革を迫っているEVについては、EV普及の阻害要因となるLiイオン電池の価格下落が失速し(規模の不経済)、最大の阻害要因である高コスト問題に解決が危ぶまれ大衆化が遅れるのみならず、充/給電インフラ整備の限界や、AIへの過度な期待に基づき喧伝された自動運転実現の遅れに起因し、喧伝されているCASEが実現する新たなモビリティ社会の実現は遠いと言わざるを得ない。ただし欧州を筆頭に国を挙げてEV推進に投資が進み、材料技術革新等により一旦阻害要因を克服し浸透するならば、内燃機関故に主導権を握ってきた自動車OEMを頂点とする業界ピラミッドは瓦解し、TeslaやDysonを含む新規参入組との群雄割拠の構図となる可能性がある

乗用車の新車販売台数が先進国や中国で低迷する一方で、保有台数は増加し、ストック市場としてのアフターマーケットは保有年数の長期化傾向も相俟って、引き続き成長が見込まれる。アフターマーケットの中でもニッチなセグメントではあるが、従前から存在するカスタムカー市場はモータリゼーション全盛時代の車好き層に支えられ、市場は堅調に推移する。

並行して、世界的にカーシェアリング市場が台数ベースでの成長を見せており、長期的には大手カーシェアリング事業者が大口の乗用車保有者となり、自動車OEMに対してデザイン、装備・性能の標準化やコストダウンを要求できるだけの交渉力を有する可能性は理論的には考えられるが、現時点ではそれだけの交渉力を有する事業者台頭の動きはない。
レンタカーにおいても、最大の事業者である米国のEnterpriseにしても、200万台を保有しているとは言え、それは米国の自動車保有台数の1%に満たず、自動車OEMに対して大きな交渉力を持つとは言えない。

MaaS(mobility as a service)もCASEと並び自動車市場を変えるとされるキーワードであり、確かにUberLyftといったライドヘイリングプラットフォームは浸透してきたが(日本にいるとその感覚は無いが)、彼らはノンアセットのビジネスであり、自動車ユーザーですら無いので(ユーザーは乗る人とドライバーというプラットフォームのオーディエンス)、業界のサプライチェーンを変えるものではない。

一方で、商用車については、乗用車よりも物流事業としての要請から運行管理においてテクノロジーの採用ニーズは高く、また物流スタートアップ等の参入により、既にコネクティビティの高度化は進展していること、またオンラインショッピングの普及により物流需要が高まり、新車販売台数も乗用車より高い伸びを見せている他、乗用車と商用車の兼用も増加傾向にある
自動車OEMの売上減少や車種多様化に起因する多品種少量化が開発費抑制圧力を高め、既に欧州で実現しているVirtual engineeringが自動車の設計・開発のfront-loadingを実現すると共に自動車業界のエコシステムを変え(OEMの交渉力低下)、徐々に自動車バリューチェーンの多様化が進む。

設計・開発フェーズにおいては、front loadingのため設計および開発初期段階での試作の重要性が高まり、Virtual prototypingによる物理的な試作品(意匠試作)は減るものの、人間工学的(官能性等)検証の為の物理的試作の必要性は変わらず、またモジュール化により開発部品点数は減るものの、金属・樹脂・カーボン等、高まる軽量化・安全性・耐久性・コスト削減要求に応える為の先行開発は引き続き重要である。厳しくなる一方の安全、排ガス規制への対応は終わりなき要求であり、革命的ではなく漸進的な改良が続く。

所謂「革命的な市場の変化」は、人口動態、技術の進化により長期間の蓄積が顕在化したものであることが多く、インダストリー4.0(およびその一環であるVirtual Engineering)も1990年頃に端を発する長期的取組の結実に過ぎない。CASEも然りであるが、実現にはさらに数十年を要すると予測する。

資材需要者においては、EV関連のスタートアップ、カーシェアリング事業者の台頭などはあるものの、当面は現状のOEMおよびTier 1、Tier 2プレイヤーが主体であり、サプライチェーンに大きな変化はないであろう。

歴史を振り返ってみると、様々な業界において「革命」という言葉は使われるが、真の意味での革命が起きる頻度は巨大地震よりも低く、まして自動車市場のように巨大でシステムとして出来上がっている場合は殊に短期間での革命など不可能である。どのような時間軸で見るかにもよるが、大方の意思決定者は30年という時間軸で判断することは無いだろう。
市場の大規模でdisruptiveな変化を気にするより、目の前の現実を具に観察しつつ方向性を鳥の目蟻の眼で見定めることが賢明な行動である。特に、冒頭に消費者の視点で述べたことが、大企業にとって遠いユーザー視点が重要であり、ユーザー視点を育むには自動車領域における新規事業参入を含め直接的に自動車開発に関与することが得策と思料する。

鬼の撹乱

ほとんど風邪というものに縁のない自分(体質改革以来)が、4年ぶりに風邪でダウン。周囲からは鬼の撹乱と言われている。
先週木曜の朝から違和感はあったが、クライアントとのミーティングもあったし、休むほどではないだろうと念のためマスクをして出かけ、いつもだったら少々熱っぽくてもオレンジセオリー🍊でワークアウトすれば復調していたのが、今回ばかりは違った。
ウィルスという外敵の侵入増殖を許してしまっていた。
前にもこのブログに書いたが、人間いや生命と外的環境とは動的平衡にあり、今回は平衡状態がマイナスの方に少し傾き過ぎた。
体温は39℃まで上昇、自分史上かつてないのどの痛みと鼻水の量。
まる3日間ほとんど何もせず安静にしてやっと37℃まで下がってきたが脈は速く安静時心拍数は55ぐらいだったのが今朝68まで上がった。
昨日受診した医者は熱が上がるには正当な生体反応だから無理に下げることは(よほど高熱が続くのでない限り)良くないという。まったく同感である。
たまにこうやって自分の免疫系は自己の能力を増強していくのだろう。しばらく風邪を引かなかったから今回はまとめて総点検ということかもしれない。

ナゴヤドームリレーマラソン

こないだの土曜日は名古屋遠征。
fitbitフレンズに誘われてナゴヤドームリレーマラソンに出場しました。

自分が出場したのは42.195km男女混成の部。
男女2名ずつ4名でナゴヤドーム構内の約2kmのコースを21周。自分は5回走りました。

普段ジムで走っているものの、外ランしかもリレーとなると実にひさびさなので前日から緊張❣️
しかし始まってみると楽しい❣️
タイムもおそらく5回とも8分を切っているらしい。4分/kmペースはトレッドミルではきつめのペースなので自分に拍手👏
レースなので人と競う要素は大きいとはいえ、このペースで5回走り切ったのは大いに自信になりました。
こうなると欲が出てくるもので、10km45分切りとか1500m5分切りとかやってみたくなる。

チームメンバーでもあり誘ってくれた地元のMくんに大いに感謝です。

何を弾くかをどう決めるか(ピアノ)

日曜日にコンクールの本選があり、見事に入賞できなかったので、自分の今年のコンクールシーズンは終わりを告げた。
ピアノ仲間(彼は通過したので全国大会進出!おめでとう!)と話していて、率直な意見を聞いたところ、「あまり楽しんで弾いてるようにみえない。本当に楽しめる曲をやってみたらどうか。やはりコンクールでいい成績をおさめる人は楽しんで弾いていると思う」という、自分もそう感じてはいたがあらためて言われてみるとやはりそうだと思った。とてもありがたい意見である。

思えば、これまで自分が評価を受けた時は(コンクールでもコンサートでも)、本当に心から弾きたいと思って選んだ曲に取り組んでいたときだった。まさに「好きこそものの上手なれ」である。
10数年前にピアノを再開してから、これまでコンクール入賞したり、「とても良い演奏だった」「感動した」と(お世辞も半分だと思うが)言われた曲は以下のとおり:

スクリャービンピアノソナタ10番作品70(某コンクールで全国1位)
ベートーヴェンピアノソナタ32番作品111第2楽章(Arietta)(入賞した別のコンクールでの入賞者演奏会演目、好評だった)
アルベニス:イベリア第3集より「エル・アルバイシン」(全国1位をいただいたコンクールの入賞者コンサート演目、好評だった)
バッハ:平均律第2巻14番BWV883嬰ヘ短調(某バッハコンクールで2位入賞)
シマノフスキー組曲メトープ作品29よりセイレーンの島(この曲で何度かコンクール予選通過)
スクリャービンピアノソナタ7番作品64「白ミサ」(某コンクールで全国大会進出)

この他のコンクール予選通過曲:
ショパンエチュード作品25第5番ホ短調
ドビュッシー:練習曲集より第3曲「四度のための」
カプースチン:8つの演奏会用練習曲第7番「インテルメッツォ」
アルベニス:イベリア第3集より「ラバピエス
メンデルスゾーン:厳粛なる幻想曲作品54
メシアン:幼子イエスに注ぐ20のまなざし第10番「喜びの聖霊のまなざし」

いずれも楽曲のアナリーゼはもちろん、レッスンも受けて公開演奏の場数も踏み、しっかり取り組んだ曲であり、それができたのもその時その時でとても「弾きたい」曲だったことが共通している。
このうち最後のメシアンはしかし、まだ弾けていないので十分に楽しめてはいない曲だ。もう2年も取り組んだし、コンサートでもコンクールでも弾いている(通算10回)曲ではあるが、メカニカルにいっぱいいっぱいのところが多く、まだ自分の求める響きが作れていない。最低でもあと1年はしっかり取り組まないと、弾いている自分も苦しいし、曲の魅力を十分に引き出すことはできない。

そこでこれらの曲を当時どう選んだかを考えてみる。
(1)人の演奏がきっかけ: かつては誰かがライブで弾いているのを聴いて「あっこれ弾きたい」というのがきっかけだったことが多い。白ミサなどはまさにそれなどである。
(2)かっこいい: あるいは、「こんな難しい曲弾けたらかっこいいな」というミーハーな動機だったこともある。ラバピエスがそうであり、喜びの聖霊のまなざしがそうである。
(3)ピアノ曲中押しも押されぬ最高傑作の一つ: ベートーヴェンの32番
(4)自分の苦手分野克服目的: バッハの平均律がそうである。ショパンエチュードもそう(ただしショパンエチュードは小学生の頃からのあこがれでもある)。
(5)コンクールで弾くのによさそう: セイレーンの島がこれに類する。5分以上10分以内で、あきらかに厳しい点数がつきそう、自分の苦手な「基礎」が見えにくい、等の消極的(戦略的)理由。ただし、だからといって嫌いな曲を選ぶことはしない。

これからの選曲について考えてみる。本題である「楽しんで取り組める曲」をどう選ぶかである。
いまとなってはおよそ優れたピアノ曲(時の試練を受けている)で聴いたことのない曲を探す方が難しいほどなので、コンクールやコンサートで「この曲初めて聴いた」というのはあまり無くなってしまった。
自分はピアノ曲の研究をExcelで管理しており、一度でも弾いたことがある或いは弾くと決めた曲はすべて登録しており、現時点で467曲ある。
あらためてこの467曲のリストを見直してみた。
昔取り組んだ、あるいは取り組もうと思った曲の中で、いま「すごく弾きたい!」と思う曲があるか。
あまりなかった・・・。
強いて挙げれば:
ショパン幻想ポロネーズ作品61
シューベルトピアノソナタD959イ長調
ブラームス:6つの小品作品118第2番間奏曲
リスト:リゴレットパラフレーズ
ベートーヴェンピアノソナタ7番作品10の3

ぐらいである。

いや、そんな多くあっても仕方がない。1曲でもあればいいのだ。いずれにせよ社会人として同時に多くの曲に取り組む必要などさらさらないのだから。それより数少ない曲を深く深く深く掘り下げ、曲の魅力を最大限引き出すのだ。
かつての自分は、次々と違う曲に取り組むことが楽しみだった。
しかし今は、一つの曲にどれだけ入り込めるかが楽しみになりつつある。それがメシアンの喜びの聖霊のまなざしであり、白ミサであり、武満徹の雨の樹素描IIであり、スクリャービンエチュード作品42の5であり、今年久しぶりにオーケストラと共演させていただいたシューマンのピアノ協奏曲なのだ。

そして突然閃いた。新たに取り組みたい曲が。

ショパン 幻想ポロネーズ作品61

ショパン幻想ポロネーズ作品61は、自分にとって前奏曲集作品28と並ぶショパンの最高傑作である。
この曲に最初に触れたのは高校生の頃。
爾来間欠的に遊び弾きしているが、ここに至って本格的に取り組むことにした。
邦題は幻想ポロネーズだが、原題はPolonaise-Fantasie。ポロネーズ風幻想曲と呼ぶべきかもしれない。
というのも、他のポロネーズとは異なり、ポロネーズのリズムは断片的にしか現れないからでsる。断片的とは雖もきわめて重要なモチーフである。
自由な形式で書かれており、ショパンならではの美しいモチーフが次々に展開され、また冒頭からして目まぐるしく転調し、メカニカルというより色彩豊かな表現が全曲を通じて求められることから、完全なる精密なコントロールが必要だ。
この曲が書かれたのは1846年。この3年後にショパンは他界する。白鳥の歌と言ってもいいかもしれない最後の大曲である。
しかしフィナーレは歓喜に満ちている。これは戻ることのなかった祖国ポーランドの勝利への願いなのか。
そしてポロネーズのモチーフは少年時代の郷愁なのか。
複雑ながら自然な人間としての感情の移ろい。
祈りのコラール。
どこまでも美しい響きで深く内面に訴えかける演奏をしたい。

コンクール本選を聴いて

昨日は友人たちが出演する国際アマチュアピアノコンクールの本選を聴きに&応援しに紀尾井ホールに行ってきました。
1時間ほどしか会場にいることはできませんでしたが、A部門の5人の演奏を聴けました。
演奏後に何人かと会い、ささやかながら自分の言葉で称賛を伝えました。
それぞれに仕事や家事、プライベートが忙しい中、レッスンや練習に時間を割き、ステージを務めあげたことはそれだけでも大変なことです。
自らの選曲はいずれも難しい曲ばかりですが、いずれもどう弾きたいのかが伝わってくる演奏でした。
細部まで気を配り、かつ構成を意識した丁寧な演奏。
緊張感や苦労も伝わってきましたが、一様に感じられたのは皆本当にピアノが好きなのだということ。アマチュアの演奏に聴き入るのはこれが感じられることが最も魅力的なことです。
今の自分のテーマであるメンタルスタミナも感じられました。やはり好きだからこそのメンタルスタミナです。
多少のミスはあっても音楽を前に進めること、徹底的に表現を磨くこと、ディテールにこだわり抜き美しい響きを追求すること、そして音楽としての規律を守ること。終わりの無い挑戦です。
コンクールを聴きながらそんなことを思いました。

Amazonの高額商品

探しに行ったわけではないのに広告が出ていた。

あひるまみれ50000羽 200万円
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ブラキオサウルス大型造形物(恐竜等身大フィギュア) 226万円
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55カラットのダイヤモンド裸石 55億5千万円
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もちろん買わないが、いかにも買ったようなフリをしてたくさんのレビューが書かれている。しかもけっこうおもしろい。

メリハリのある人事制度

目下ある大企業の人事に関するプロジェクトをリードしている。
従来横ならびで年功序列であった人事制度を、能力に応じた抜擢で早期にリーダーポジションに就くことを可能にし、事業経営ができる人材を多数輩出するものにすることが目的である。
難題であるが、方針は決まった。
シンプルである。
シンプルなことが難しいのが日本企業。
シンプルにすることを拒んでいる。
人事に限らず、コミュニケーションにしても複雑である。結論を曖昧にする。結論を先に言わない。シンプルなロジックを嫌う。
これを自分は「高度なプロトコル」と呼んでいる。
誰かが明確な責任を追うことを全力で回避するのである。
これを変えることは難しい。
ではどうするか。
型を作るのである。
今は表皮があるだけだが、構造を作る。
少しずつその型に合わせて動くようにする。
そして方針を作る。
方針を腹落ちさせ心を変える。
心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。
ウィリアム・ジェームズの言葉である。

So you think you can...

BSで毎年シリーズで放映しているアメリカの人気ダンスコンテスト番組「アメリカンダンスバトル」の原題はSo you think you can dance。
意外なタイトルだと思ったが、これにはセンスを感じる。
直訳すれば「君は自分が踊れると思ってるの?」である。
disっているように聞こえなくもないが、ある道を極めようとすれば常にこう自問すべきであろう。
実際、このコンテストの水準はきわめて高い。
ヒップホップやバレエやジャズやラテン、それぞれに強みを持つ、全米各地のオーディションを勝ち抜いたダンサー達が毎回違うジャンルのオリジナルの演目をソロやペアやチームで踊り、一流の振付師やダンサーの審査と視聴者投票でどんどん絞られていくのは見ごたえがある。

ピアノであれば「ふーん。それで弾けたと思ってるのかい?」である。

常に改善すべき余地はある。もっと良くなるはず。上には上がある。飽くなき探求追究であり彫琢である。
英語の座右の銘にしよう。

戦略コンサルタント的ピアノ上達法(2)

前回(1)に引き続き、戦略コンサルタントならではの視点でピアノ上達法について書いてみる。
ステップ②でAs Is(現状)を分析し、③でTo Be(あるべき/ありたい姿)を定義する、とさらっと書いたが、今回はこの最も重要な(特にピアニストがプロもアマも最も改善の余地が大きいであろう)2点について考えを進めてみる。
まず、②の現状分析であるが、戦略策定における事業分析において無くてはならないのは、分析のアプローチ、分析に必要な情報収集、そして分析ツールとその活用に長けていることである。
分析のアプローチとは、そもそもどういうアウトプットを出すためにどういうフレームワークやモデルを用いれば良いのかを適切に設計したものである。
レッスンを受けるのであれば、教師にこれらが備わっていなければならない。楽曲の理解に基づきどういう演奏が具体的に「正しい」のか、また生徒の特性と能力の把握ができなければならない。
情報収集は生徒とのコミュニケーション(演奏も含め)がその手段であるが、そもそもどういう分析をしようとしているのか、つまりどういう情報から何を読み取るべきかを教師があらかじめ持っていなければ、いくら時間をかけてコミュニケーションをとっても、的確な分析はできない。
独習する場合、よく言われるのは自分の演奏を録画して視聴することが最も効果的かつ効率的な練習法だということだ。確かに、ただやみくもに繰り返し弾いても、程度の差こそあれ決して客観的に自分の演奏を把握することはできないし、良い演奏とは自分が判断するものではなく聴衆が決めるものであるから、主観的な(誤った)認識のままではいつまでたってもよい演奏にはならない。そして、自分の演奏を視聴するにしても、何を視るのか、何をどう聴くのかの視点が自分の中になければ、ただなんとなく「あー弾けてないなー」で終わってしまい、何を改善すべきかどう変えるべきかのアクションにつながらないからこれもまた上達にはつながらない。
③の「ありたい/あるべき姿」というのはさらに難しい。ただ「この曲が弾けるようになりたい」ではTo Beとしてまったく不十分である。企業であれば、どういう戦略ポジションをとり、どう差別化するのか、顧客にどう自社の製品/サービスを訴求するかの拠り所となる自らのブランディングがそこになくてはならない。ピアニストであれば、「どういうピアニスト/音楽家になりたいのか」である。ただ誰かの真似をするのではなく、自分の資質や意思がそこにあり、他者からみて納得できるような「ありたい/あるべき姿」でなければ単なる身勝手なあこがれに過ぎない。その意味では、実は①と③はつながっている。
②と③はこの順番に定義するのではなく、並行して検討するものだが、ピアノに関して言えば、実は③を最初に考えるべきかもしれない。何(曲、作曲家)を弾きたいか、ではなく、ピアニストとしての自分は何者なのか、をまず決めること。
とても難しいことだが、実はこれが上達の近道ではないかと今日思った。