コンサルタント=ピアニスト=ランナーはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストがランニングと仕事術とピアノと英語とかについて語ります

究極のヘルスケアについて考える

なぜ究極のヘルスケアについて考えているのか

 

ヘルスケア業界で目に付くホットなキーワード(これまで解説した低侵襲、アドヒアランスコンコーダンス、医療ビッグ・データ、DDS、・・・)は確かにいまのヘルスケアが患者にとっての付加価値を生むものですが、それらキーワードが象徴するトレンドから帰納的に今後のヘルスケアの全体像を予測しようとするには無理があります。

2020年、あるいは2030年のヘルスケアと題し、例えばビッグ・データやウェアラブル、ICTやセンシングがあたかも医療・介護あるいは健康管理の未来を決めるかの如く論じているものが多いですが(自社の宣伝目的だから納得がいくが)、忘れてはならないのは、この他に医療アクセスの問題もあり、また大きな変革が起ころうとすればするほど、既得権益が阻害要因として影響を増すからです。

 

そもそもヘルスケアとは

 

ヘルスケアの基本的な考え方は、おそらく今も未来も、ひとりひとりの患者が十分な情報にアクセスでき(したがって医療従事者側との情報の非対称性が解消され)、自分で「判断」でき(末期がんや認知症、独居老人でも自分に過度に不利にならないように)、自分自身の意向や経済状態に応じ「納得のいく」サービスを享受することができる、ということであろうとおもいます。

 

技術で変えられないのか

ビッグ・データ、センシング、アナリティクス、ICTやロボットをいくら駆使したところで、変わることができない、あるいはむしろ積極的に見捨てられるのが終末期かもしれない。かつて(戦前)9割が自宅で死を迎えた日本、現在は1割ですが、行政は地域包括ケア、在宅シフトという形で個人・家族に押し付けようとしています。家族の在り方や就業スタイルが、ますますかつてとはかけ離れた形になっている現代において、果たしてこの部分はどうなるのでしょうか。技術革新で光があたる部分もあればそれだけ闇も深くなります。

地域包括ケアについては、世田谷区、柏市、あるいは他のいくつかの自治体では、自治体、医療機関、介護福祉事業者、調剤薬局などの連携で新たなモデルを構築しようとしていますが、如何せん現状の診療・介護報酬制度では限界が見えています。

そもそも介護保険制度発足の時点で、そもそも国がどこまで介入すべきなのか、というそもそもの議論もあり、混合診療、セルフ・メディケーションなど、現存の皆保険制度で担保し切れない部分への対応が処々に断片的に行なわれている中、「究極のヘルスケア」とは何かがますます問われているように思います。

 

変化は始まっている

 

それは決して近未来SFで描かれるような高度に技術的に洗練されたものではなく(部分的にはそうでしょうが)、さらにそれを超えたところにあるとおもいます。どの国をモデルにするのでもなく(日本は高齢社会化でフロントランナーですので)、日本独自の形態・仕組を打ち出さなければならないとおもいます。

法政大の小黒一正教授らが提唱している「(地域包括)ケア・コンパクト・シティ」にいま注目しています。部分的には島根県邑南町や埼玉県和光市、東京都稲城市の取組などがその萌芽的な事例として該当するようです。

 

変化は辺境から起きる。変化は現場から起きる。必要は発明の母。