コンサルタント=ピアニストはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストが仕事術とピアノと減量と英語と沖縄とかについて語ります

読書メモ:修行論

内田樹さんの「修行論」を読みました。

仕事でもプライベートでもぼくは「修行」とか「特訓」とか大好きなのです。

印象に残った記述を抜書きしてみました。

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  • 努力に対して、どのような報奨があるかがあらかじめ示されているから、人間は努力する。報奨が示されない場合に、努力する人間などいない。「いいから黙ってやれ」というような横暴なことを言う年長者がたまにいるかもしれませんが、子どもはそんな言葉には耳を貸さない。
  • 「いいから黙ってやれ」ということを師匠は言うが、言われたことをやらなかったから必ずしも「罰を受ける」ということはない。逆に、言われたことをやったから「ほめられる」わけでもない。
  • 修行する人は、「自分が何をしているのか」を「しおえた後」になってしか言葉にできない。自分に説明できないことを、他人に説明できるはずがない。他人に説明できないことについて、他人との優劣や強弱や巧拙を論じられるはずがない。修行は商取引とは違う。
  • 連合艦隊司令長官東郷平八郎は、あるとき前方に荷馬がいるのを見て、道の反対側にそれを避けたことがあった。見とがめた同輩が、「いやしくも武人が馬を恐れて道を避けるとは何事か」と難詰した。東郷は涼しい顔で「万一馬が狂奔して怪我でもして、本務に障りがあれば、それこそ武人の本務にもとるでしょう」と答えたという。東郷を連合艦隊司令長官に推薦した海軍大臣山本権兵衛は「東郷は運のよい男でありますから」と奏上したと伝えられているが、この逸話は「運のよい男」というよりは、むしろ「不運を事前に察知する能力が高い男」だったことを教えているように私には思われる。
  • 私たちの「最初のボタンの掛け違え」は、無傷の、完ぺきな状態にある私を、まずもって「標準的な私」と措定し、今ある私がそうでなはないことを「敵による否定的な干渉の結果」として説明したことにある。因果論的な思考が「敵」を作り出すのである。
  • 古来、武道の伝書が繰り返し教えてきたのは、「私」という概念を書き換えないと話は始まらないということである。
  • 「よし、今日から我執を捨てるぞ」と決意したことのある人ならわかると思うが、そういう人でも「さあ、今日はどれくらい我執が捨てられたかな……」という自己点検を免れることはできない。
  • 未来を予測しないもの、それがとりあえず、「無敵」の探求への第一歩を踏み出すときに手がかりにすることのできる「私」の条件。
  • 私たちが何かにアディクトするのは、自分が自分の身体の支配者であるという全能感をそれがもたらすから。ダイエットでも、自傷行為でも、ギャンブル依存でもアルコール依存でもそれは変わらない。問題は「私は自分の身体を統御している」という全能感のもたらす愉悦。
  • 「無知」とは、学び変化することを妨げる力。ある哲学者によれば、無知とは知識の欠如ではない。知識で頭がぎっしり目詰まりして、新しい知識を受け入れる余地がない状態のことを言うのだそう。
  • 多くの人が考えているのとは違い、大学教育とは、何か有用な知識や技術を「加算」することではない。「学び」への正道の自然な発露を妨害している学生たち自身の「無知への居着き」を解除すること。
  • 信仰を持つというのは「そういう態度」のことではない。キリスト教徒であれば、イエスが湖の上を渡ったことも、死者を蘇らせたことも、墓から出てきた悪霊たちを豚に憑依させたことも、すべて「信じる」と宣言するところから、その信仰を始めるべきではあるまいか。
  • 「信じる」とはある種のメタ認知のことである。自分がものごとを知覚し、受容し、認識しているときに用いている知的な枠組みの射程は限定的なものであり、「私の知的枠組みを超越するもの」が存在する蓋然性は高いとい認めることである。私は、このような事故の知的射程の有限性の覚知のことを、「科学的」と呼ぶべきだろうと思っている。
  • 自我は、「私」が外部にある他者を、自分だと「錯認した」ことで成立する。なぜ「錯認」かというと、そこにあるのが鏡ではなく、幼児の動きを完全にトレースするように設計された熊のぬいぐるみであった場合には、幼児は「熊のぬいぐるみとしての自我」を獲得するはずだから。
  • 幼児は「大人である」ということがどういうことかを知らないから幼児なのであり、大人は「大人になった」後に「大人になる」とはこういうことだったのかと事後的・回顧的に気づいたから大人なのである。成熟した後にしか、自分がたどってきた行程がどんな意味をもつものなのかがわからない。それが成熟という理機動的なプロセスの仕掛け。
  • あらゆる非人間的な行為は、人間の等身大を超えた尺度で「真に人間的な社会」や「真に人間的な価値」を作り出そうと願った人たちによって行われた、自分の生身が届く範囲に「正義」や「公正」の実現を限定しようとせず、自分が行ったこともない場所、出会うこともない人たち、生きて見ることのない時代にまで広がるような「正義」や「公正」を実現しようとした人たちは、ほとんど例外なく、世界を人間的なものにする事業の過程で、非人間的な手段を自分に許した。巨大なスケールの善をなすためには、小さな悪を犯すことは正当化される。
  • 天才とは、自分がしているルーティンの意味を修行の早い段階で悟り、それゆえ、傍から見ると「同じことの繰り返し」のように見える稽古のうちに、日々発見と驚きと感動を経験できる人のことである。
  • 僕の場合、ちょっとでも厭なことを我慢していると、熱が出てくる。脈拍数が上がる。手足が震えてくる。さらに我慢すると発疹まで出てくる。頭では「ここはじっと我慢して」と思うが、身体がいうことを聞かない。