我々ピアニストがともすると囚われているのではないかという呪縛にふと思い当たった。
それは
「この曲は難曲だ(`・ω・´)」
というものだ。
実際に人(先生や友人)に言われることもあるし、本でもウェブサイトでもあるいはCDのライナーノートやコンサートのパンフでも「難曲」という語句を目にし耳にする機会はあまりに多い。
しかし、演奏する者にとって「難曲」ということがどれほどの良い意味があるのか。
難曲を弾くという、あたかも「そこに山があるから」行為への憧憬、モチベーション?
これはまあいいかもしれない。
一方、「あんな難曲弾けないから自分には」と諦めてしまう?
これはよくない。
一番良くないと思うのは、「この曲は難曲なんだから完璧に弾けなくても仕方がない」と妥協してしまうことだ。
本来そんなことはないはずだ。
作曲家が明らかに意地悪く演奏困難に作曲した楽曲を除いては。
また、「難曲」とレッテルを貼る、ラベリングすることで思考停止していないか。
例えばアルベニス作曲イベリアの第3集第3曲ラバピエス。完璧な演奏はプロですら少ない。たとえイベリア全曲録音していても。探求の余地がかなり残されている(と最近思えるようになった)。
。。。と自分を戒めあらためてラバピエスを掘り下げるのであった。
とはいえハンマークラヴィーアとラヴァルスと白ミサが先ね(いずれも難曲だけど難曲と思ってはいけない)!