コンサルタント=ピアニストはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストが仕事術とピアノと減量と英語と沖縄とかについて語ります

社会人アマチュアピアニストの存在意義とは

Van Cliburnアマチュアに2011年と2016年と参加し、おそらくは世界でもトップレベルの社会人アマチュアピアニスト達の演奏を目の当たりにしまた交流を深め、また自分自身も日本国内のコンクールで優勝入賞してきたものの、果たして社会人アマチュアピアニストの存在意義は何だろうと常々考えているが、未だに答が出ない。

ピアノを弾くことは素晴らしいことだ。音楽は大きな深遠な測り知れない魅力のある世界だ。

一生かかっても、いや何回生まれ変わっても弾き切れない数多の傑作に恵まれてもいる。

ピアノに取り組むことは人間としての成長に大きく寄与することでもある。

弾きたい曲がそれなりに弾けるようになることの喜びは何物にも代え難い。

しかし、だ。

それが何だと言うのだ、と思う時がある。

楽曲を理解すればするほど、求められる要求の高さに圧倒される。作曲家の要求でもあり、「こう弾きたい」という自らの要求でもある。

ただ音をなぞっているだけではないのか、という思いから常に逃れられない。

仮に他者から評価されても、必ず「何かが違うんじゃないか」、「まだまだこんなんじゃ足りない」という思いにひれ伏すしかない。

しかしそもそも芸術とはそういうものなのだろう。

社会人アマチュアという立場に甘えてはいないか。

「アマチュアにしては上手いね」では納得できなくなる。かといってそれ以上を目指すだけの献身が可能なのか。

昨日の自分の演奏は既に過去のもの。

確実に進化してはいる。

しかし進化の度合いはどうなのか。

音楽は意識下の自分が表出する。

意識下の自分が成長するには時間を要する。

献身と忍耐。

音楽は惜しみなく奪う。

希望と落胆。

自信と自己否定。

快感と苦悩。

波が寄せて来る。

既に圧倒的なエネルギーを発する演奏が実在するその楽曲を自分があえて演奏する意味は何か。弾きたいから。弾けるようになりたいから。自分の感動を表現したいから。それだけでいいのか。

アマチュアはぬるま湯だ。

お互いに批評できない。

批評も的外れだ。仮にしたとしても。

それじゃ意味がない。

アマチュアなんだから好きに弾けばいい。何の責任もコミットも無い。でもそれでいいのか?そのままでいいのか?

いつまでも答は出ないかもしれない。

音楽は天才だけのものじゃない。仮にそうだとしたら市場が成立しない。

そうだろうか?

10代の頃から音楽表現は天才のみに与えられた特権だと信じて疑わない。

この土日は連続コンサートだ。ただの練習会と言った方が正しい。

楽しければいいんだな結局。何にでも意味を求める必要などないのかもしれない。

しかし人間は意味を存在意義を求めてしまう存在なのだ。

一体どうしたらいい?