フルタイムの仕事を持ちせいぜい1時間しか一日の練習時間が確保できない社会人アマチュアの多くは「効率的」に曲を仕上げる(=コンサートやコンクールで弾ける水準に持っていく)ことに腐心し、様々な工夫をする。
自分もピアノを再開してからというものかなり工夫してきたように思う。
しかしここにきてそれは違うのではないかと思っている。
確かに、何も考えず、単純作業のノルマをこなすように何回も何回も繰り返し通して弾くのは「非効率」かもしれない。ツェルニー60番的に。
しかし実際には、傍目には10回同じことを繰り返しているように見えても、そこに上達が見えなくても、奏者本人の中では何かが変わっている。能動的に聴いていさえすれば。目指す、創りたい響を求め、自分の頭と身体を統合し演奏上の阻害要因を克服していくPDCAサイクル。
これはもはや「練習」ではなく芸術の創造行為そのものではないのか。
楽譜を媒体として解釈まで含め完全にデジタル化し再生するのであれば人間は不要だしむしろAIに任せればよい。演奏家はいらない。
非効率にみえてもそれは各人にとって芸術的な行為であり、そのプロセスを楽しむ(同時に苦しむ)ことこそが音楽生活だと思う。
したがってあえて言う。ピアノに効率を求めるな、と。
雨垂れ石を穿つ
一念岩をも通す
万里の道も一歩から
精神一到何事か成らざらん
ローマは一日にして成らず
焦るな諦めるな自分を責めるな
信じろ感じろ自分をさらけ出せ
いい加減に1,000曲弾けてもただ1曲魂込めて弾ける曲には及ばない