感動する、楽曲のポテンシャルを最大限に発揮した素晴らしい演奏とは何より「きちんと弾く」ということができていることを痛感しています。
昨日、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ2番1楽章の展開部の難しさについて取り上げました。
この箇所ですね。レファラレ・ミ・ファ・ソ・ラという第2主題が3声のカノンでストレッタで繰り返されます。
ここが難しいのはテンポがアレグロ(といっても速すぎず)で音域の広い主題が1拍ずれてソプラノ、アルト、バスに次々現れ、d moll、g moll, C dur, F durと転調していきますが、すべて同じアーティキュレーションで、原則音量も同じで、決して拍が少しでも遅れることなく、しかも転調するので色彩を変化させなければなりません。これらすべてを同時に完璧に弾かねばなりません。ほとんどのピアニストはこれができていないとおもいます(もしできている方がいたら教えてください)。
次にバッハの平均律2巻19番プレリュードのこの箇所をみてみましょう。
この小節は主調A durに戻っていますが、当然ながら前の小節のV度からの解決で始まり、このプレリュードの主たるモチーフがこの小節で2回繰り返しになっているのは当然全く同じに弾かねばなりません。問題は右手に上行する対旋律があり、基本どちらもレガートで切れ目なく滑らかにかつ音のバランスを保って弾かねばなりません。それも全て厳密に完璧に弾かねば「でたらめ」に聴こえてしまいます。手や指の都合で変なアクセントがついたり音が切れてはなりませんし、つなぐためにペダルを使うにしても決して音が濁ることなく絶妙なタイミングと深さで踏まねばならないのです。
そして右手にばかり気をとられて左手のバス音が気の抜けた音になったり休符がいい加減になってもNGです。
次はスクリャービンのピアノソナタ第7番白ミサの再現部後半の重音五連符パッセージが続くこの箇所です。
このパッセージは主役ではありませんのであくまでも主旋律である第2主題がいつもと同じアーティキュレーションで弾かれた上で右手から左手への受け渡しは滑らかに切れ目なく行なわねばなりませんし、五連符を正確な音価で常に弾かねばならないことも当然なのです。そこに32音符のモチーフも絡んできますがこれも適当に入れてはなりません。楽譜に忠実に正確に音のバランスを設計し演奏することが求められています。極めて難しいです。
最後の例はメシアンの喜びの聖霊のまなざしの狩の歌第3変奏です。ここは左手がfffでリズミカルに弾くのが主ですがエコーのような左右の重音が両側の音域に奏され、両手重音のパッセージは弱音で始め急速なクレッシェンドで、跳躍で遅れることなく弾かねばなりませんしペダルで濁り過ぎてもなりません。対位法的扱いも丁寧に表現しなければなりませんし、I度とV度とのカデンツも当然ながらespressovoとは書いてなくてもそう表現するのが音楽の基本です。
バッハで求められる基本はこのように古典でも或いは近現代でも同じように守らねばいい音楽にはなり得ません。
ロマン派の例を出しませんでしたが、これはショパンでもとても重要です。
きちんと弾くこと、それも「つもり」ではダメです。能動的に音を聴いて、明らかにできていると誰もが思えるほどに厳格に守られているか。練習においてどこまで聴き分け表現できるか。そしてレッスンでチェックして修正する。地味なことですがこの繰り返しで音楽を創っていくことは決して苦行などではなく、そのプロセスこそが喜びであり芸術行為だと思うのです。