コンサルタント=ピアニスト=ランナーはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストがランニングと仕事術とピアノと英語とかについて語ります

尊厳死とは何かについて考えはじめてみた

いま自分が主催している研究会のテーマは健康長寿を実現しつつ医療・介護費を抑制することなのですが、先日の研究会の会合において、メンバから直接的に医療費を削減するということでは必ずしも無いにしても(実際には「過剰な」延命治療が抑制されるので医療費削減にはつながると思いますが)、尊厳死に関する位置づけを明確にし、提言に含めるべき、という良い指摘があったので、あらためて考えてみることにしました。

 

自分自身も約13年前に実の母親の延命治療の是非を自ら決断したことがありました。母はパーキンソン症候群を患っており、おそらくはパーキンソン症候群治療の強い薬で脳血管に負担がかかっていたのか(本当のところはわかりません)、ある日脳内大出血を起こし、昏睡状態に陥ってしまいました。

それでも全く回復の見込みがないわけではないということで、数か月間は様子をみたのですが、3か月経過した頃、やはり回復の見込は無さそうと判断し、またチューブだらけの病床の母を見続けるのもしのびなく、また母も(既に意思疎通はできなくなっていましたが)おそらくは無駄な延命は望まない性格であろうと察し、医師と相談の上生命維持システムを停止させることに決めました。

これを尊厳死というか否かは尊厳死の定義次第ですが、厳密には「本人の意思に基づく」とあるので、本人の意思が確認できない以上尊厳死では無いのかもしれません。

参考: 尊厳死 - Wikipedia

また、一般財団法人日本尊厳死協会のQ&Aには尊厳死の定義を含め協会の見解が述べられています:

www.songenshi-kyokai.com

しかし実際問題として、終末期の患者本人の治療継続に関する意思が確認できるとは限らないのではないでしょうか。母のようにある日突然意識を失い戻ることは無かった、という患者さんはいらっしゃるはずです。

なので尊厳死という言い方にどこか違和感を覚えます。politically correctではあるのでしょうがそれだけに何か遠いものを感じてしまいます。

哲学的な問いとしての人間の尊厳とは何か?に帰着させることは思考停止です。

現実の問題でありとても現実的な問題なのです。一般論として昇華させるには何が足りないのでしょうか。

厳密な意味での尊厳死を具現化するには、家族含め個人が自らの余生の在り方死に方を判断でき意思決定できなければなりません。

しかし、どこまでいっても医療介護の専門家と個人の間の情報非対称性は完全には埋まりません。

また、尊厳死高齢者だけの問題でもありません。先日、このような報道がありました:

www.huffingtonpost.jp

新生児で、しかも「ミトコンドリアDNA枯渇症候群」という難病ではありますが、決してレアケースと言って片付けていいものではないと思います。

 

そもそも、尊厳死に関する理解は一般的にはまだまだなのだろうと思います。先日の研究会でも、「尊厳死安楽死の区別がつかない人も多い」というコメントも出ていました。こんなコラムがあります。

takeyear.com

安楽死については2ヶ月ほど前にこのブログでも書いてみました。

 

jimkbys471.hatenablog.com

 

また、尊厳死に関して先日図書館で参考書を探していたら、「平穏死」という言葉もありました。実際に特別養護老人ホームに従事されているベテラン医師の先生が書かれた本です。

www.gentosha.co.jp

 

様々な用語、考え方が出てきていますが、要するに本質は、患者や家族が臨まない延命医療が延命医療であることを患者や家族が認識でき、かつ医師や看護師や介護士が非を問われることのない人間の生の最期のあり方とはどういうことなのか、に関して厳密な定義ではなく現実に広く受け容れられ実践できるもの、を真剣に見出さなければならない時期に来ているのだと思います。

研究会で議論を深めていきたいと思います。