子供の頃からリヒテルの演奏が好きだ。
シューマンの交響的練習曲を聴き、ピアノというのはこう弾くものだと思った。
もちろんライブではなくCDだが、それでも精魂が込められている演奏であることは明確に自然に伝わってくる。
精魂込めて演奏するということは、決して「込めよう」と意図してできるものではない。
結果として込められているものなのである。
精魂とはこの場合、自らの内にあるものが音楽という形をとって湧き出てくるもの。
どうしても外に出たいと思って時間芸術であるピアノ演奏の形で表出するもの。
楽曲を分析するのも演奏するのもそれを実現するにあたって阻害となる自らの能力の限界や不理解を克服するプロセス。
もし何一つ阻害要因がなかったとしたら(その可能性もあり得る)練習せずともできるだろう。
もし自分が「精魂込めて演奏する」ビジョンを極めて明確に描くことができるなら、ピアノを弾くということは単に「楽しい」とか、自己承認を求めるとかその上の次元の自己実現だとかそんなことはもはや取るに足らないこととなるだろう。
つまり「何かのために」、手段としてピアノを弾くということではもはやないのだ。
プロもアマも関係なく、その域を目指すのであろう、とふと思った。