コンサルタント=ピアニスト=ランナーはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストがランニングと仕事術とピアノと英語とかについて語ります

アレクセイ(アリョーシャ)・スルタノフというピアニスト(2)

スルタノフについてはいくつか本が上梓されているが、Wikipediaやブログ等には書かれていないアリョーシャの人物像、特にピアニストとしての個性についてより理解を深めるべく、昨年出版された「アレクセイ・スルタノフ~伝説の若き天才ピアニスト~」(アルバン・コジマ著)を読んでみた。

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ところで自分は2011年と2016年の2回、スルタノフが晩年住んでいたFort Worthを訪ねており(コンクール参加のため)、必ずスルタノフは話題に上っていた。しかしその人物像は未だ自分の中で定まっていないので、支持する人しない人双方の意見を聞いてできるだけ客観的に把握したいと思っている。

 

この本に、「ピアニストとしてのスルタノフ」という一節がある。

まず著者はスルタノフの「先天的な能動性」を冒頭で挙げます。ここで著者が言う「能動性」とは、「自発的に音楽のエネルギーを聴衆にむかって放射する能力であり、またその能力を推進させるのに必要な意欲、好奇心、想像力、分析力、総括力、集中力というような、内から迸る(ほとばしる)『原動力』の作用を指します」だそうだ。

ただし、これは思うにスルタノフだけが持っている性質ではないと思う。個人的には(同意する人も多いと思うが)、アルゲリッチ、ポゴレリッチをはじめとする、強烈な個性で多くの聴衆を虜にしたピアニストに共通の特性であろう。とはいっても、これをなかなかCDやYouTubeで実感することは難しいかもしれない。ある程度はもちろん再現できているかもしれないが、コンサートホールでライブで体験して初めてその真価が判る(時間芸術としての音楽はほぼ例外なくそうであろうと思うが)ものであり、その意味では同時代人で無ければ判り得ないものなのであろう。こう思うともう二度とスルタノフの演奏をライブで聴けないのが残念でならない。

 

著者はまた、こうも書いている:

「スルタノフの場合、ステージに置かれたグランドピアノに触れた瞬間、あの小柄な身体(註:彼は日本人の標準からしても小柄なのである)からこうした熱いエネルギーが聴衆へと放射されます-あたかもそれが電波であるかのように。なぜでしょうか。『音楽を共に、分かち合う』というスルタノフの精神が、大手を広げて聴き手を包容するからです」と。

この「包容」という表現は実に的を得ていると思う。

さらに、こうも書いている:

「スルタノフの超絶的技巧、巨大な音響、目もくらむほどの指のスピードは、すべて、規模の大きな音楽表現を実現するに必要な手段に過ぎないのです」と。

 

さらには、「脱力」がスルタノフの巨大な音響と超絶技巧(特に三度)を可能とする本質であり、これは現代ではユジャ・ワンにも共通するとも述べている。

ピアノを弾くものなら誰でもがおそらくは終わりなき研鑽を求められる「脱力」がどこまでできているか。自分としては練習する際にどれだけ自分を心身ともにピアノに「あずけられるか」という感覚を大切にしている。スルタノフの演奏、特にチャイコフスキー1番、ラフマニノフ2番、ショパン2番のピアノ協奏曲を聴いて強く感じるのは、一切の躊躇も迷いも気負いも力みも不安も無く、意識を超越して全ての音がコントロールされている状態が体現されていることであり、驚異であると共に、自分の音楽におけるスコトーマを外し世界観を形成してくれている。