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ショパン前奏曲集作品28(27)下田幸二氏著「聴くために 弾くために ショパン全曲解説」

ピアニスト下田幸二氏は、「聴くために 弾くために ショパン全曲解説」を著している。本棚の片隅にあったものを引っ張り出して前奏曲集作品28の解説を読んだところ、これが短いながらも寸鉄のごとくこの作品の魅力と意義を伝えているのでここに引用する。

 

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===== 引用始 =====

前奏曲 Preludes

24の前奏曲 作品28

1838 ~39年作曲。1839年出版。カミーユ·プレイエル(フランス版)、ヨゼフ·クリストフ·ケスラー(ドイツ版)にそれぞれ“我が友”という言葉を添えて献呈。

「プレリュードの手稿は送れない。まだ、出来上がっていないんだ。この週間というもの、僕は犬のように病気だった。... 3人のこの島で最も優秀な医者のうち、一人目は吐いた啖の匂いを嗅ぎ、二人目は啖の出るところ、三人目は吐く時に触れて聴診をした。一人目は僕が死んでいると言い、二人目は死にかけていると言い、三人目は死ぬだろうと言った。…」(1838年12月3日ユリアン·フォンタナ宛)

「プレリュードを君に送るよ。...僕は、自分の小さな部屋で生活している。ここには、アラビアの踊り、アフリカの太陽、そして地中海があるのです。…」(1839年1月22日ユリアン·フォンタナ宛)

この対照的な二つの手紙は、どちらもショパンによって、ジョルジュ·サンド一家と滞在中の南欧地中海に浮かぶ島、マヨルカ島で書かれたものである。

この手紙にもあるように、ショパンは24のプレリュード作品28をこのマヨルカ滞在期間中に完成している。作曲開始時期については、1836年、1838年説、果ては、1831年ワルシャワ蜂起失敗の報に、悲嘆にくれて書いた「シユトゥットガルトの手記」の頃と言うのまであって、どれもはっきり否定も肯定もできないが、いずれにしても、1838 ~ 39年にかけて、体調、精神的に非常に不安定な時期に、まとめられ完成していったことは確かである。

この24のプレリュードの調性は、ハ長調イ短調ト長調ホ短調 と、長調とその平行調が5度圏を上がって行き、すべての調を一回りする。これは、ショパンが非常に尊敬の念を持っていたバッハの平均律ハ長調ハ短調嬰ハ長調嬰ハ短調..と同主調が半音階で上がって行く方法とは違い、より曲と曲との関連性に重きを置いている。

一方、各曲のキャラクターを1曲ごとに見ると、難易度も、曲想も、技巧の難易度も、それぞれまちまちである。長さは、小節数で言うと、短い曲ではたった12小節(第9番)、長い曲では90小節(第17番)だ。技巧的には、第12番や第16番のように最高度の技巧が必要なものから、易しい曲(もちろん音楽的には別だが) までそろっている。曲想は、青春の憧れを胸に秘めた曲、あるいは、激情の発露のような曲、かと思えば、死の予感を感じさせるような不吉な曲と、それこそ曲ごとに違っていて、一言では書き切れない…。

しかしながら、この24のプレ/リュードを通して聴くとき、しかしながら、24曲が一つの見事な有機的まとまりを持っていることを、感じないわけにはいかない。

この24のプレリュードを完成したのは、前述の1839年1月、ショパン28歳の時である, 28といえばまだまだ若い年齢だが、早熟だったショパンが、20歳にして言わば亡命者となった当時の状況、婚約までしながら遂げられなかったマリア・ヴォジンスカとの恋、その後のジョルジュ・サンドとのゴシップに満ちた恋愛、そして、少しずつ体を蝕む結核・死の影、結果的には39歳の短い生涯、これらのことを考えれば、28歳のショパンは、年齢よりもずっと多くの人生経験を積み、それを自身の中で消化し、作曲家としても成長してきたと言える。このあたりが、各曲が違ったキャラクターを持ち、さながらショパンの天才性のデパートのようでありながら、全体では見事に有機的なまとまりを見せる名曲を、28歳にして完成させるという、作曲家としての熟成を可能ならしめた背景であろう。

===== 引用了 =====

この後に24曲の個々の解説があり、短いが各曲の聴かせどころのヒントを与えてくれている。