コンサルタント=ピアニスト=ランナーはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストがランニングと仕事術とピアノと英語とかについて語ります

新型コロナウィルスについて書いてみる

この1月に新型コロナウィルスが注目されるようになってから、かねてより抱いていた懸念、つまり日本の国力と将来に関する絶望が決定的になったと日に日に強く感じている。緊急事態宣言もそしてその延長も、未だ決定的でなかったものをより決定的にする方向に作用する事象に過ぎない。

4年前の2016年から、戦略コンサルタントとして社外研究会を企画し、日本経済を破綻させる可能性が高い社会保障、特に医療介護の問題について、社外の識者各位とどうすれば社会保障の意地と健康寿命延伸を両立できるか真剣に取り組み一つの答を出し、実例と共に立法・行政の関係者に提言した。
そしてその次の研究会は、日本の産業の主体である製造業が如何に変革を遂げ、失ってしまった国際競争力を回復するかについて、これも産官学の識者を集め解を求めてきた。この研究会はこれから成果をまとめようという時に、コロナの影響で中断している。
そして本職では、ここ20年一貫して実際に実務で企業の競争力、いや本質的に価値を創出する力を高める取り組みを大企業から中小企業まで支援してきている中、一環して組織、人材はどうあるべきか、技術革新をどう組織として活用し、人間の能力を増幅させるかをテーマに考えてきており、外部環境の変化にどう適応し、埋もれた能力、潜在能力を発揮させるかを真剣に考えてきた。
一部の識者が語っているように、今般の「コロナ禍」は変革のトリガーでありチャンス(と言うのは「空気を読めば」不謹慎なので私は言わないが)でもある。なぜならば、「あるべき姿」が実現しない阻害要因の最たるものは、既存の秩序の維持という慣性力の大きさであり、大きな外的なショックを以て打破することのみが(残念ながらというのではなく構造的に組織として意思決定に相応の理由が必要だからである)有効なものだからだ。

ちなみにこの変化とはリセットではない。本質への回帰である。回帰といっても以前のどこかの時期に戻るのではなく、現状に即して見失っていた本質と向き合うことである。

自分が考えて出した結論は、今般の「コロナ危機」(そうこれは危機である。マスコミ用語ではなく自分の言葉として)がもたらす変化は不可逆的かつ本質的な変化である。社会システムを大きく変えるものである。昨日総理大臣が緊急事態宣言延長(となるともはや緊急ではないが)を宣言すると共に新しい生活様式なる提案をしたが、内容はともかく個人のみならず社会システムとして変わらなければならないことは確かである(3日前まではスマートな生活様式と言っていたがやや語弊があるので表現を変えたと思われる)。
前段で言及した社会保障も製造業も社会システムにその脆弱性の原因があり、対症療法や個々の組織の対応で解決する程度の問題ではもはやなくなっている。
マラリアデング熱といった感染症とは異なりインフルエンザや新型コロナは人と人が直接または間接的に(物を介して)接触することによってウィルスに接し、体内に取り込まれ、体内で増殖することを経て感染が成立する(感染の定義によればウィルスが体内に入っただけでは感染ではない)ものであり、東大の河本先生がいみじくも仰るとおりスペイン風邪以来100年を経てなお最も有効な感染予防策は人と人とが接触しない、或いはウィルスの授受が行われ得ない距離を保つことであり、その意味において「三密」回避は当を得た予防策である。

ビジネスにおける行動様式として、ウェブ会議システムというツールは既に何年も前から活用しているが、あくまでも補助的な手段であったのが(海外の場合は別)、主たるコミュニケーションツールになったが、これは2000年頃のITバブルの時に論じたコミュニケーションのコストの観点からは当然の選択である(当時は帯域やソフトのUXに問題があり甚だ使い勝手が悪かったが)。自分の仕事でも先月から全面的にクライアントとのあるいはチームのミーティングもすべてオンラインに切り替えたが、決してこの転換自体で生産性は下がってはいない。
生産性が下がっているとすれば(実際にクライアントを見ていると下がっているが)、F2F(face to face, 対面)であればだらだらとアジェンダも不明確なまま長時間(あるいは終わりを定めず)議論できたのが、オンラインでは短時間に効率よく議論し結論を出さなければならないことに起因する、会議の進め方の本質を従前守っていなかったことであり、我々コンサルタントからすれば会議という組織のオペレーティングメカニズムの根幹を見直すことになっているのは良いことである。そもそも何のために会議をするのか、何を論点として、何を材料に誰が参加してどうファシリテートするのか、という当たり前のことをあらためて考える機会が与えられた。

新型コロナに関して語るときに私が語ることがいきなり会議という各論に入ったと思われるかもしれないが、会議というのは組織力を決める重要なメカニズムである。そして、戦略策定にせよ投資意思決定にせよ会社の方向性を決める上で会議は欠かせない。実態はというとしかし経営陣や管理職の多くの時間が実に非効率な会議によって占められてしまっている。単なる確認のため、周知のため、会議をやったという儀式的な意義づけのため、などである。このようなことに慣習的に多くの企業で日々時間が費やされているというのは本来は膨大な無駄であるのだが、会議を削減するあるいは効率的に進めることで得られる便益は単なる費用削減ではなく、迅速で有効な意思決定でありアクションであり、それこそが組織の、事業であれば事業価値向上の源泉である。カリスマトップ(仮に賢明なそのような存在がいたとしても)がすべて決められる訳ではない。

洗脳マシーンとしてのマスコミはいちおう新聞もTVも目を通すことにしている。日本のメディアだけではなく米国や英国のメディアも主にウェブだが目を通している。当然ながらとてもバイアスがかかっている。意図したバイアスもあるが、不理解や誤解によるバイアスもある。
感染者数の推移が殆ど唯一のKPIとなっているが、感染者数の推移と感染拡大には直接的な関係が無いことはわかっていてもさすがにそればかりが強調される結果(代替指標がないということもあるが)、有識者であってもなくても疑心暗鬼は募るばかりで、マスコミの意図する不安の喚起・励起には大いに寄与している。
有識者と思われる方々までが、PCR検査を広範囲に無作為で実施すべきなどと唱えるのは、PCR検査の感度・特異性の低さとCovid-19のおそらくかなり低いであろう罹患率を考えると、大量のfalse positiveと大量のfalse negativeが医療資源の浪費と根拠のない不安と逆に安心感をもたらすだけで無意味どころか有害であることは、既に賢明な方がブログに書かれているのでそちらに譲ることにするが、それにしても混迷と混乱しかジャーナリズムには見受けられない。

ジャーナリズムを建設的に批判する能力を持つことは、我々に必要なリテラシーである。ジャーナリズムが政権の広報であるとしても、では政権は何をプライオリティとしているのか、伝えられないことも含めて見抜く能力も養う必要がある。
コロナが某国の陰謀であるという説も唱えられており、ある国は表立って躍起になって批判しているが、真っ向から否定するのではなく、そういう仮説も一旦は構築した上で、自分なりに検証してみる。
また、新しい(スマートな)行動様式についても、実際に街で従前人々が行なっていた一つ一つの行動のどれが「スマートでない」のかを見極めれば、実はコンサルタントの基本動作である「分けて考える」的には、国民全員が一律に変えるのではなく、セグメント別にあらためるべき行動が明らかになる。

Stay home, stay strong, stay healthy, stay calm, and stay smart