自分が生まれる前から母が弾きまた教えるのを聴き、また気がついたらいつの間にか家のピアノを弾いていた、「ピアノ歴≒人生」の自分ですが、そもそも「ピアノが弾けるというのはどういうことなのか」を真剣に考えるようになったのは今年になってからのことです。
大学を卒業してから10年前まで実は長いブランクがあったとはいえ、ピアノを弾くことは自分にとって当たり前のことだったので、当然と言えば当然かもしれません。
が、自分で好き勝手に弾いている分にはいいのですが、10月にあらためてリサイタルをやることになり、責任ある演奏をしなければならないこと、またそれ以前に自分で納得のいく演奏をしたいという思いが強くなったことが、このそもそもの論点について考えるようになったきっかけでもあります。
クラシックであれば、楽譜に書かれている音を、作曲者が楽譜に書いた強弱記号や表意記号その他すべての情報に基づき、音楽理論に照らして「正しく」、しかし自分なりの解釈とイマジネーションを響きとして再現すること、これができればいちおう弾ける、ということになるのでしょう。
しかし、ここで言いたい「ピアノが弾ける」というのは、そのような定義的な一般論ではなく、実際に自分が「ピアノが弾ける」というのは自分がどういう状態にあるのか、「弾けない」状態からどのような変化が起こった結果そうなるのか、をはっきりと言葉で伝えられる形で理解するということです。
プロセスとしては、しっかり楽譜を読み込み、自分でも音にしてみて、先生にも指導を仰ぎ、練習し、ステージで弾いてフィードバックをもらい、また練習して磨いていく・・・ということでしょうが、それは状態が遷移する過程であって状態そのものではありません。
もし一言でその「ピアノが弾ける」状態を表現するとすれば、自分が「この曲は自分と一体化しているという確信」です。
そして、弾けないとは、この状態にわずかでも足りない状態のことです。
これまで数々のピアノ演奏法、練習法、自伝の本を和英問わずまたウェブ上の文書(かなり良いテキストが英語版なら出回っています)が、この考え方には出会っていません。
この確信は極めて体感的主観的なものなので、表現がきわめて難しいということが理由なのでしょう。
しかし今回自分はこの難題の解決に挑みます。
おそらくその感覚は、ピアノ以外でも野球のイチロー選手や体操の内村選手、或いは将棋の羽生さんにも共通する部分があるのかもしれません。
実はこの考え方に至ったのは、先日投稿した若手チェリストの伊藤悠貴さんの言葉で気づいたものです。
これが先日の投稿です:
「生まれ変わったらこの曲になりたい」という思いがまずあるのですね。自分がその曲と一体になっているという、そういう目指す姿が端的に言い表されている見事でストレートな切れ味鋭い一言です。
何年か前から、ピアノ上達のプロセスは障害を克服し阻害要因を除去していくものと捉えてきました。
楽曲のポテンシャルを最大限に発揮させ自分のイマジネーションを音にしていく上での障害や阻害要因は、楽曲の理解と身体と心理の統合を成し遂げるあらゆる面に存在します。
ピアノを再開してからの10年、レッスンを受けた先生は公開レッスンやお試しも含めて10人を超えますし、アマチュアピアノ仲間とも頻繁にピアノ上達について語っているので、練習方法についてはかなり語れる方だと思っています。
練習方法はあくまでも目指す状態に到達するための”How”に過ぎないので、今回語るのはその到達点としての「弾けるようになった状態」です。
「この曲は自分と一体化しているという確信」
これは具体的にはどういう状態なのでしょうか。思いつくままに述べてみたいと思います。
- 曲を弾き始めるとき、何の気負いも不安もなく呼吸するように弾き始めることができる。たとえそれがコンクールの決勝であろうが大聴衆を前にしたコンサートの舞台であろうとも
- 手首にも肘にも肩にも余分な力が入っておらず、肩甲骨から指先までしなやかに自然な流れができている
- 音を出そうと意識するのではなく、脳内に流れる音楽が自然に紡ぎだされ、指はや手や腕はただそれに従って動いている
- ただ夢中になって我を忘れているのではなく、明鏡止水の如く頭は冴え耳は研ぎ澄まされ、すべての音が出てから完全に消え去るまですべてを把握できている
- すべての音は他のすべての音と関係性を持ち、一音一音が独立の音高・音価・音量の情報を持っているだけではなく、フレーズ、楽節における位置付けを含めて膨大な数の関係性の情報を有している
- 楽譜は和声、表意記号、強弱記号を含めすべての情報を脳内で無理なく再現することができるのみならず、再現する際に身体的運動とも完全に結びついている
- その曲の世界観というものがまずあり、その世界観のあらゆる部分が完全に自分の価値観と一致し、かつそれが創り出された響によって完全に再現されていながらも、時間芸術としての音楽は二度と同じ再現には非ず、常にそこに新たな価値が生み出されている
これらのことが一切の妥協も無くできる状態、これが現時点で自分が考える「弾ける」ということです。
そして、この状態を明確に思い描き、一秒一秒あるいはもっと細かい時間単位でこの状態の実現を妨げるあらゆる要素を確実に排除しこの状態に限りなく近づいていく、そのような練習のあり方と次々に生まれる音楽的アイデアの試行プロセス、これが音楽をすることなのだ、という考えに至っています。
これからもこの考えは進化していくことと思いますが、現時点で自分が考えるベストの「ピアノが弾けるということ」の記述にトライしてみました。