1カ月後に勉強会で弾くベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番をかつてなくマジメに練習しています。
マジメな練習の定義は、一つ一つの音の音価音色音量アーティキュレーションを入念な設計に基づき、全身を使って無理なく自然に響くよう耳を傾けてそのフィードバックを納得がいくまで繰り返すことです。
と、ここで楽譜をここに貼付しようと試みましたが何度やってもできません。iOSアプリがOSアップデートに対応していないのでしょうか。早めのアップデートに期待します。
話を本題に戻します。
練習というのはひたすら地味なものだと思ったのは今回が初めてではありません。
10年前にピアノを再開した頃、もともと専門的に継続的に長期間にわたってピアノの訓練を受けていないアマチュアにはどうしても「甘え」があります。
プロのピアニストですらそれはありますし、気を緩めるとどうしても「甘く」なってしまうのです。それは恩師であるコンサートピアニストや音大の先生からも幾度となく聞かされてきたことです。
確かルドルフ・ゼルキンだったでしょうか。ゆっくりとゆっくりとひたすらスケール(音階)を何時間にもわたって繰り返す。傍目には何度も同じことを繰り返しやっているかのようにしか聴こえないので、「ああ 音階練習は何十回も何百回も反復するのだな。それがピアノに熟達する方法なのだな」と思ってしまうかもしれませんがそれは違います。同じように繰り返しているように見えて、実は極めて鋭敏な耳で違いを聞き、修正していく或いはより美しい響きを追求していくフィードバックプロセスなのですが、その違いがあまりにも微妙である上に、そのプロセスはピアニストの頭の中で起こっていることなので、他人から見ればほとんどブラックボックスなのです(しかし耳の良い人であればおそらくある程度はそのプロセスが見えることでしょう)。
そしてその良い響きの追求には決して終わりはないのです。
これはスケールであってもアルペジオであってもそうですし、対位法的な作品であってもそうですし、重音やオクターブであってもそうです。
このフィードバックプロセスを楽しめること、集中し没入できること、決して妥協しないこと、弾き飛ばさないこと、これは言うは易しですしいろいろなところに書かれていますが、どこまで厳しくまたどこまで高みを目指すのかはなかなか実感できないものです。
かなり乱暴に言ってしまえば、練習が地味であればあるほど、本番での演奏は聴衆の心に響くものになるのだと思います。