中学・高校と最も成績が振るわなかったのが歴史、特に日本史なので、歴史上の出来事にも人物にも疎い自分である。
とはいっても常識的なレベルではもちろん仕事上も差し支えるので知っている。
もっとも、まったく興味がなかった訳ではなく、中学の時は北条泰時について研究し、原稿用紙にして数十枚の論文を書いたこともある。
そして最近では社外の近現代史に関する研究会にも参加しているので、先に投稿したように、二二六事件についてはかなり詳しいし、近衛文麿や乃木希典といった人物についても自分なりに文献を読んで研究し、高説も賜っているので、人並み以上には理解しているつもりである。
そんな自分が、あらためて研究しようと思い立った人物が佐久間象山である。
江戸時代を扱った映画やドラマでは決して主役にはならないものの、重要な登場人物として実は佐久間象山は良く出てくる。
しかし、あまり巷間で話題になることはない(少なくとも自分は聞いたことが無い)。
それなのになぜ佐久間象山かというと、もう20年ぐらい前のこと、かつての上司に、どういう文脈だか忘れたが、「佐久間象山みたいな人だね」と言われたことを、先日何の弾みか思い出したからである。
だがその時上司は、自分のどこが佐久間象山を思わせるのか、あまりはっきり言ってくれなかったような気がする。
あるいは聞いたのかもしれないが、あまり腑に落ちなかったので記憶に残っていないだけかもしれない。
手がかりを得るべく、文献を探していたところ、客観的に書かれていると思しきものを見つけた。
講演記録 佐久間象山の経歴とその時代背景
雑誌記事 有浦 英毅 <Z71-W237>
掲載誌 長崎純心比較文化学会会報 (10):2016 p.15-32
この記事の冒頭では、歴史上の人物の描写において常套である、そもそもどういう家に生まれたのかについて詳しく書かれており、真田幸村にも関係がある旨が書かれている。
しかしこの記事を読む目的は、佐久間象山という人物と自分との類似点を探すことであるので、彼の人物像に関するできるだけ客観的な記述を求めており、したがってこのくだりは流すことにする。
しばらく読み進むと(この講演記録は長い)、「第四節 成人期」に行き当たる。
ここの記述を引用してみる:
「成人してからの象山の体格、風貌は、五尺八寸ぐらいもある長身で、筋骨たくましく肉付きも豊かで顔は長く、額は広く秀でており、二重瞼で眼はいささか窪み、瞳は大きくて爛々と光り輝き、恰も梟の眼のようであったから、子供の頃はテテッポウ(梟の方言)とあだ名をつけられていたという。」
とある。
明らかに容貌・風貌が自分との類似点ではないことは明らかである。
次に、こうある:
「意見を述べるときは言辞荘重、かつ条理整然、よく人の肺腑に徹し、話し出すと止まらないほどの大雄弁家であったと言う」
ふむ。ここはある程度共通する部分はあるかもしれない。しかしこのような表面的なことを指していたようではない気がする。
次に、こうある:
「性格は狷介(けんかい)、不羈(ふき)、協調性に乏しく、頭脳明敏で博学であったから、孤高の気性が強く、人にあまり愛されなかったというより、むしろ毛嫌いされ、徒に敵をつくることが多かったようだ。象山を抜擢し、生涯応援し続けた藩主真田幸貫は、「予の家臣中ずばぬけた俊足は啓之助(象山)で、将来どんな者になるか楽しみだ。しかしちと悍が強すぎて頗る難物である恐らく予の外には、よくこれを御し得るものはあるまい」と評したという。」
これかもしれない。しかしまったくほめていない。というかかなり耳が痛い。
確かに当時かなり生意気だったのは確かである。しかしその生意気さが買われて本社に一本釣りされたのだから、そういう一面も自分の個性である。重要な個性である。
その元上司にメールして当時の真意を聞いてみよう。きっと覚えていることだろう。