コンサルタント=ピアニストはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストが仕事術とピアノと減量と英語と沖縄とかについて語ります

何を弾くかをどう決めるか(ピアノ)

日曜日にコンクールの本選があり、見事に入賞できなかったので、自分の今年のコンクールシーズンは終わりを告げた。
ピアノ仲間(彼は通過したので全国大会進出!おめでとう!)と話していて、率直な意見を聞いたところ、「あまり楽しんで弾いてるようにみえない。本当に楽しめる曲をやってみたらどうか。やはりコンクールでいい成績をおさめる人は楽しんで弾いていると思う」という、自分もそう感じてはいたがあらためて言われてみるとやはりそうだと思った。とてもありがたい意見である。

思えば、これまで自分が評価を受けた時は(コンクールでもコンサートでも)、本当に心から弾きたいと思って選んだ曲に取り組んでいたときだった。まさに「好きこそものの上手なれ」である。
10数年前にピアノを再開してから、これまでコンクール入賞したり、「とても良い演奏だった」「感動した」と(お世辞も半分だと思うが)言われた曲は以下のとおり:

スクリャービンピアノソナタ10番作品70(某コンクールで全国1位)
ベートーヴェンピアノソナタ32番作品111第2楽章(Arietta)(入賞した別のコンクールでの入賞者演奏会演目、好評だった)
アルベニス:イベリア第3集より「エル・アルバイシン」(全国1位をいただいたコンクールの入賞者コンサート演目、好評だった)
バッハ:平均律第2巻14番BWV883嬰ヘ短調(某バッハコンクールで2位入賞)
シマノフスキー組曲メトープ作品29よりセイレーンの島(この曲で何度かコンクール予選通過)
スクリャービンピアノソナタ7番作品64「白ミサ」(某コンクールで全国大会進出)

この他のコンクール予選通過曲:
ショパンエチュード作品25第5番ホ短調
ドビュッシー:練習曲集より第3曲「四度のための」
カプースチン:8つの演奏会用練習曲第7番「インテルメッツォ」
アルベニス:イベリア第3集より「ラバピエス
メンデルスゾーン:厳粛なる幻想曲作品54
メシアン:幼子イエスに注ぐ20のまなざし第10番「喜びの聖霊のまなざし」

いずれも楽曲のアナリーゼはもちろん、レッスンも受けて公開演奏の場数も踏み、しっかり取り組んだ曲であり、それができたのもその時その時でとても「弾きたい」曲だったことが共通している。
このうち最後のメシアンはしかし、まだ弾けていないので十分に楽しめてはいない曲だ。もう2年も取り組んだし、コンサートでもコンクールでも弾いている(通算10回)曲ではあるが、メカニカルにいっぱいいっぱいのところが多く、まだ自分の求める響きが作れていない。最低でもあと1年はしっかり取り組まないと、弾いている自分も苦しいし、曲の魅力を十分に引き出すことはできない。

そこでこれらの曲を当時どう選んだかを考えてみる。
(1)人の演奏がきっかけ: かつては誰かがライブで弾いているのを聴いて「あっこれ弾きたい」というのがきっかけだったことが多い。白ミサなどはまさにそれなどである。
(2)かっこいい: あるいは、「こんな難しい曲弾けたらかっこいいな」というミーハーな動機だったこともある。ラバピエスがそうであり、喜びの聖霊のまなざしがそうである。
(3)ピアノ曲中押しも押されぬ最高傑作の一つ: ベートーヴェンの32番
(4)自分の苦手分野克服目的: バッハの平均律がそうである。ショパンエチュードもそう(ただしショパンエチュードは小学生の頃からのあこがれでもある)。
(5)コンクールで弾くのによさそう: セイレーンの島がこれに類する。5分以上10分以内で、あきらかに厳しい点数がつきそう、自分の苦手な「基礎」が見えにくい、等の消極的(戦略的)理由。ただし、だからといって嫌いな曲を選ぶことはしない。

これからの選曲について考えてみる。本題である「楽しんで取り組める曲」をどう選ぶかである。
いまとなってはおよそ優れたピアノ曲(時の試練を受けている)で聴いたことのない曲を探す方が難しいほどなので、コンクールやコンサートで「この曲初めて聴いた」というのはあまり無くなってしまった。
自分はピアノ曲の研究をExcelで管理しており、一度でも弾いたことがある或いは弾くと決めた曲はすべて登録しており、現時点で467曲ある。
あらためてこの467曲のリストを見直してみた。
昔取り組んだ、あるいは取り組もうと思った曲の中で、いま「すごく弾きたい!」と思う曲があるか。
あまりなかった・・・。
強いて挙げれば:
ショパン幻想ポロネーズ作品61
シューベルトピアノソナタD959イ長調
ブラームス:6つの小品作品118第2番間奏曲
リスト:リゴレットパラフレーズ
ベートーヴェンピアノソナタ7番作品10の3

ぐらいである。

いや、そんな多くあっても仕方がない。1曲でもあればいいのだ。いずれにせよ社会人として同時に多くの曲に取り組む必要などさらさらないのだから。それより数少ない曲を深く深く深く掘り下げ、曲の魅力を最大限引き出すのだ。
かつての自分は、次々と違う曲に取り組むことが楽しみだった。
しかし今は、一つの曲にどれだけ入り込めるかが楽しみになりつつある。それがメシアンの喜びの聖霊のまなざしであり、白ミサであり、武満徹の雨の樹素描IIであり、スクリャービンエチュード作品42の5であり、今年久しぶりにオーケストラと共演させていただいたシューマンのピアノ協奏曲なのだ。

そして突然閃いた。新たに取り組みたい曲が。

ショパン 幻想ポロネーズ作品61

ショパン幻想ポロネーズ作品61は、自分にとって前奏曲集作品28と並ぶショパンの最高傑作である。
この曲に最初に触れたのは高校生の頃。
爾来間欠的に遊び弾きしているが、ここに至って本格的に取り組むことにした。
邦題は幻想ポロネーズだが、原題はPolonaise-Fantasie。ポロネーズ風幻想曲と呼ぶべきかもしれない。
というのも、他のポロネーズとは異なり、ポロネーズのリズムは断片的にしか現れないからでsる。断片的とは雖もきわめて重要なモチーフである。
自由な形式で書かれており、ショパンならではの美しいモチーフが次々に展開され、また冒頭からして目まぐるしく転調し、メカニカルというより色彩豊かな表現が全曲を通じて求められることから、完全なる精密なコントロールが必要だ。
この曲が書かれたのは1846年。この3年後にショパンは他界する。白鳥の歌と言ってもいいかもしれない最後の大曲である。
しかしフィナーレは歓喜に満ちている。これは戻ることのなかった祖国ポーランドの勝利への願いなのか。
そしてポロネーズのモチーフは少年時代の郷愁なのか。
複雑ながら自然な人間としての感情の移ろい。
祈りのコラール。
どこまでも美しい響きで深く内面に訴えかける演奏をしたい。

コンクール本選を聴いて

昨日は友人たちが出演する国際アマチュアピアノコンクールの本選を聴きに&応援しに紀尾井ホールに行ってきました。
1時間ほどしか会場にいることはできませんでしたが、A部門の5人の演奏を聴けました。
演奏後に何人かと会い、ささやかながら自分の言葉で称賛を伝えました。
それぞれに仕事や家事、プライベートが忙しい中、レッスンや練習に時間を割き、ステージを務めあげたことはそれだけでも大変なことです。
自らの選曲はいずれも難しい曲ばかりですが、いずれもどう弾きたいのかが伝わってくる演奏でした。
細部まで気を配り、かつ構成を意識した丁寧な演奏。
緊張感や苦労も伝わってきましたが、一様に感じられたのは皆本当にピアノが好きなのだということ。アマチュアの演奏に聴き入るのはこれが感じられることが最も魅力的なことです。
今の自分のテーマであるメンタルスタミナも感じられました。やはり好きだからこそのメンタルスタミナです。
多少のミスはあっても音楽を前に進めること、徹底的に表現を磨くこと、ディテールにこだわり抜き美しい響きを追求すること、そして音楽としての規律を守ること。終わりの無い挑戦です。
コンクールを聴きながらそんなことを思いました。

Amazonの高額商品

探しに行ったわけではないのに広告が出ていた。

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もちろん買わないが、いかにも買ったようなフリをしてたくさんのレビューが書かれている。しかもけっこうおもしろい。

メリハリのある人事制度

目下ある大企業の人事に関するプロジェクトをリードしている。
従来横ならびで年功序列であった人事制度を、能力に応じた抜擢で早期にリーダーポジションに就くことを可能にし、事業経営ができる人材を多数輩出するものにすることが目的である。
難題であるが、方針は決まった。
シンプルである。
シンプルなことが難しいのが日本企業。
シンプルにすることを拒んでいる。
人事に限らず、コミュニケーションにしても複雑である。結論を曖昧にする。結論を先に言わない。シンプルなロジックを嫌う。
これを自分は「高度なプロトコル」と呼んでいる。
誰かが明確な責任を追うことを全力で回避するのである。
これを変えることは難しい。
ではどうするか。
型を作るのである。
今は表皮があるだけだが、構造を作る。
少しずつその型に合わせて動くようにする。
そして方針を作る。
方針を腹落ちさせ心を変える。
心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる。
ウィリアム・ジェームズの言葉である。

So you think you can...

BSで毎年シリーズで放映しているアメリカの人気ダンスコンテスト番組「アメリカンダンスバトル」の原題はSo you think you can dance。
意外なタイトルだと思ったが、これにはセンスを感じる。
直訳すれば「君は自分が踊れると思ってるの?」である。
disっているように聞こえなくもないが、ある道を極めようとすれば常にこう自問すべきであろう。
実際、このコンテストの水準はきわめて高い。
ヒップホップやバレエやジャズやラテン、それぞれに強みを持つ、全米各地のオーディションを勝ち抜いたダンサー達が毎回違うジャンルのオリジナルの演目をソロやペアやチームで踊り、一流の振付師やダンサーの審査と視聴者投票でどんどん絞られていくのは見ごたえがある。

ピアノであれば「ふーん。それで弾けたと思ってるのかい?」である。

常に改善すべき余地はある。もっと良くなるはず。上には上がある。飽くなき探求追究であり彫琢である。
英語の座右の銘にしよう。

戦略コンサルタント的ピアノ上達法(2)

前回(1)に引き続き、戦略コンサルタントならではの視点でピアノ上達法について書いてみる。
ステップ②でAs Is(現状)を分析し、③でTo Be(あるべき/ありたい姿)を定義する、とさらっと書いたが、今回はこの最も重要な(特にピアニストがプロもアマも最も改善の余地が大きいであろう)2点について考えを進めてみる。
まず、②の現状分析であるが、戦略策定における事業分析において無くてはならないのは、分析のアプローチ、分析に必要な情報収集、そして分析ツールとその活用に長けていることである。
分析のアプローチとは、そもそもどういうアウトプットを出すためにどういうフレームワークやモデルを用いれば良いのかを適切に設計したものである。
レッスンを受けるのであれば、教師にこれらが備わっていなければならない。楽曲の理解に基づきどういう演奏が具体的に「正しい」のか、また生徒の特性と能力の把握ができなければならない。
情報収集は生徒とのコミュニケーション(演奏も含め)がその手段であるが、そもそもどういう分析をしようとしているのか、つまりどういう情報から何を読み取るべきかを教師があらかじめ持っていなければ、いくら時間をかけてコミュニケーションをとっても、的確な分析はできない。
独習する場合、よく言われるのは自分の演奏を録画して視聴することが最も効果的かつ効率的な練習法だということだ。確かに、ただやみくもに繰り返し弾いても、程度の差こそあれ決して客観的に自分の演奏を把握することはできないし、良い演奏とは自分が判断するものではなく聴衆が決めるものであるから、主観的な(誤った)認識のままではいつまでたってもよい演奏にはならない。そして、自分の演奏を視聴するにしても、何を視るのか、何をどう聴くのかの視点が自分の中になければ、ただなんとなく「あー弾けてないなー」で終わってしまい、何を改善すべきかどう変えるべきかのアクションにつながらないからこれもまた上達にはつながらない。
③の「ありたい/あるべき姿」というのはさらに難しい。ただ「この曲が弾けるようになりたい」ではTo Beとしてまったく不十分である。企業であれば、どういう戦略ポジションをとり、どう差別化するのか、顧客にどう自社の製品/サービスを訴求するかの拠り所となる自らのブランディングがそこになくてはならない。ピアニストであれば、「どういうピアニスト/音楽家になりたいのか」である。ただ誰かの真似をするのではなく、自分の資質や意思がそこにあり、他者からみて納得できるような「ありたい/あるべき姿」でなければ単なる身勝手なあこがれに過ぎない。その意味では、実は①と③はつながっている。
②と③はこの順番に定義するのではなく、並行して検討するものだが、ピアノに関して言えば、実は③を最初に考えるべきかもしれない。何(曲、作曲家)を弾きたいか、ではなく、ピアニストとしての自分は何者なのか、をまず決めること。
とても難しいことだが、実はこれが上達の近道ではないかと今日思った。

小糠雨

小糠雨(こぬかあめ)という言葉を知った。
音を立てず静かに降る、糠のようなとても細かい雨。「糠雨」とも言うとのこと。
とても嫌な、苦しい夢を見て2時前に起きたら、細かい雨が音も立てずに降っている。
特に季節は限定しないとのこと。
ほんとに細かい雨。
ほとんど無風なのでかろうじて直線を保とうとするが、微風でも簡単に流れてしまう雨。
驟雨とは対極的な細い細かいか弱い雨。
雨は決して嫌いではない。
どのような雨にも表情がある。もちろんその表情は見るものが見て感じて解釈するものではある。
雨自身が何かを考えている訳でも何かを訴えている訳でもない。
と言っている矢先から雨を擬人化している自分がいまここにいる。
丑三つ時の小糠雨内省を促す。

戦略コンサルタント的ピアノ上達法(1)

かつてなく真剣にピアノ上達について考え試行している。
戦略コンサルタントならではのアプローチを今までしてこなかったところに盲点があった。
いや、正確には部分的には実施していたのであるが、徹底していたかと言えばまったくそうではない。
天賦の才能とか資質とか練習量とかそういうことに帰着させるのではなく、ビジネスにおける戦略的な事業価値向上の観点で如何に効率的にとして最も効果的に上達するかを考える。
王道のアプローチは、企業の成長戦略の策定アプローチである。
①事業環境を3C(自社、市場、競合)の観点で捉え、
②As Is(現状)を客観的かつ正確に分析し、
③To Be(あるべき姿、ありたい姿)を描き、
④As IsとTo Beのギャップを埋めるには如何なる事業モデルを構築するか
⑤事業モデルの遂行に必要なケイパビリティをどう補完するか、そして
⑥それらを施策に落とし込み
⑦実行し、進捗をモニタリングし必要に応じ戦略・施策を修正する(このサイクルを速くする)、
これだけである。
これをピアノ演奏に関して具体化するとどうなるか。
①は自社はもちろん自分であるが、市場は言うまでもなく聴き手であり、競合は他の音楽家(ピアニストに限らない)である。最も重要なのは市場が何を求めるか、どのような演奏に価値を認めるか、である。クラシック音楽であれば、楽曲は西洋音楽の歴史においてどのような発展をたどり、作曲家が何を意図してどのような語法を用いてその楽曲を作曲したのかを理解しておくことは必須である。優れた楽曲であれば、楽譜に必ずしも書いていないことであっても、守るべきルールがあり、単純に見える楽曲であっても、それを実際に演奏行為に移すことは簡単ではない。そして、自分はなぜその楽曲を演奏したいと思うのか、その楽曲の演奏を通じて自分の世界観をどう伝えたいのか、というところに「自分」が入ってくる。そこには自分の得意不得意も入ってくる。戦略の境界条件を規定するものであり、戦略とは「捨てること」であるから、ただ弾きたい曲を弾けば良いというものではなく、あくまで市場がどういう演奏を求めるのか、自分がそういう演奏ができる可能性があるのか、を②以降で行なう。
次に、②であるが、これが最も難しいところであり、改善の余地があるところである。レッスンで師匠に指摘してもらうのもよいし、コンクールでも講評を戴ける場合もある。決して批判ではなく、建設的な視点・意見として虚心坦懐に受け止めることが必要である。これがなかなか難しい。どうしても自分の解釈が入りフィルターをかけたり、過度にネガティブになってしまう場合もある。逆にほめられたからと言って調子に乗ってもいけない。

【良書チェック】データ・ドリブン・エコノミー

主宰している社外研究会のテーマに直接関連する書籍を発見した。これはチェック必須である。

データ・ドリブン・エコノミー デジタルがすべての企業・産業・社会を変革する 単行本(ソフトカバー) – 2019/4/4 森川 博之 (著)
https://amzn.to/2xTuew2

著者は東大工学系大学院教授の森川先生。最近デジタル・エコノミーについて各誌に寄稿されている方である。
ジャーナリズムで喧伝され、データ経済、データエコノミー、デジタル・エコノミーなど定義が曖昧なまま称されているが、森川氏は「はじめに」で用語と定義をこう書かれている(そう、定義は重要)。

データ・ドリブン・エコノミー(データ駆動型経済)とは、リアルな世界から集めたデータが新たな価値を生み出し、あらゆる企業・産業・社会を変革していく一連の経済活動

そしてこの定義に先立ち、ここにおいて主役であるのはあくまでも「リアルなデータ」であるとも言われている。

現時点であたかも世界が激変するように巷間では言われているが、森川氏はそう単純に決めつけてはいけないと注意を喚起している。
データ・ドリブン・エコノミーは急に立ち上がったものでも、また完成したものでもなんでもなく、過去20年の「助走期間」を得て、これから「飛翔」していくが、どのように変わっていくかは予見不可能である、と。
そのとおりだと思う。
テクノロジーに関しては、飛行機も、電話も、蓄音機も、インターネットも携帯電話も、かつてそれが世に浸透し生活を変える以前は、的外れな予測が支配的だったものばかりだ。
だからこそ「常識を疑え」という。先日の自分の投稿に通ずる。森川氏と一度議論してみたい。