コンサルタント=ピアニスト=ランナーはきょうも語る

現役経営コンサル兼ピアニストがランニングと仕事術とピアノと英語とかについて語ります

ゾーンに入るにはどうするか

コンサルという仕事上、毎日のように提案書やプレゼン資料を作成している。
一つ一つが非定型の完全カスタマイズであり、また作業報告や分析結果の羅列に終わってしまっては当然いけないし、独創的な発想やフレームワークインサイト(洞察)が常に求められる。

独創的な発想やフレームワークは、様々な情報から帰納的に得られるものではない。かといってゼロ/無から生まれるものでもない。
こういう順番で考えれば出てくるというシステマティックなものでもない(もしそうなら既にその時点で独創的なものとなる可能性はかなり低くなる)。
制約にとらわれずとも制約を意識した、自由だけれども最終的には形に成るような思考が求められる。
何か公式のようなものに頼るというのは、その時点で既に「さぼっている」のである。
一方で、脳という臓器は、認知科学専門の研究者によると、常に高いエネルギー消費状態にあり、したがって如何に省エネするかを追求しているのだそうだ。
人間がはっきり白黒つけたがったりなど両段論法に走ったり、決めつけたりするのは、とても生理学的に理にかなっていることなのである。
外資系戦略コンサルファームに務めていた頃、大先輩のパートナーから、「コンサルタントの仕事というのは、脳が最も苦手なこと、嫌がることをやることだ」と言われたことがあるが、まさにそのとおりである。

このような前提のもとで、「これだ!」というようなアイデアを捻りだすにはどうすればいいか。
いわば脳がゾーン入ったような状態、あるいは「フロー体験」状態で、次から次へとアイデアが出、進化し、まとまっていくような状態。

自分がやっていることは2つある。
1つは、問題を切り分けることだ。提案書を作る作業も、すべてが独創的である必要はなく、構成を決めるとか、パーツのひとつひとつを作るとか、ブレイクダウンしていく。そして、本当に新たに考えださなければならない箇所をどんどん絞っていき、独創的な作業の障害となる、非独創的な作業を(アイデアが出てこない際に)どんどん進めていってしまう。こういう仕事はどちらかというと一日の後半にやった方がいい。
もう一つは、体を動かすことだ。歩くことでもいいし、走ってもいいし、筋トレでもいい。足裏の刺激は脳を活性化させるというし、そもそも血流が良くなるというのもいいらしい。走っている最中は時間密度が高く、脳の回転も速くなる気がする(これは科学的な根拠ではなく自分の仮説)。
いずれも十分条件ではなく必要条件だが、少なくとも自分のようにインサイトを出すことをずっと訓練してきた人間にとっては、「思いつける」「整理できる」と信じているし、それができないとすれば阻害要因が除去できていないからだと考えることにしているからこそできることかもしれない。

仕事ではなくピアノでもスポーツでもそうだが、何の素地もなく、また何の努力もせずゾーンに入れる訳ではない。まずはゾーンに入れるような状況を創り出すことだ。基本動作ができていること、より良いものを生み出そうという熱意がありまたその方向に向かって精一杯努力すること。

この本はアスリートに関するものだが、自分と同じ考えを持っている著者が書いており、考えを整理するのに参考になった。

すぐやる力 やり抜く力: 潜在能力が目覚めすべてが驚異的にうまくいく「フロー体験」を起こす技術 (単行本) 単行本 – 2017/7/28 児玉 光雄 (著)
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老後2,000万円について思うこと

最近話題になった金融庁のレポート。
金融庁の責任者が退任に追い込まれることで、事態としては収拾をつけようとしているようだが、忘れられている、或いは言及されない本質が三つある。

一つ目は、経済的な人生設計が難しくなっていること。

二つ目は、生活水準の高低のこと。

三つ目は、そもそも100歳まで生きるのは難しいということ。
我々が考えるべきことは「いくらあればいいか」ではなく、本質を見据えることだ。

経営者は育成できるのか

いまドライブしているプロジェクトのお題は「経営人材育成」である。
超大手企業からの依頼である。
経営人材育成は、自分が知る限り、業種や規模を問わず、どの企業にとっても重要な経営課題である。

このお題を解決するにあたって、まずどう論点を設定するかだ。
最初の、そしてもっとも重要な論点は、そもそも「経営人材」とは何か、である。この定義が明確になること無しに次には進めない。

気を付けなければいけないのは、経営人材を育成できたとして、その経営人材があたかも一人で事業を経営できるかのような状況を想定してはならない。

経営はチームで行なうものである。たとえ個人経営で一人でやっている事業であっても、果たしてその経営者=従業員がすべて一人で「経営」してうまくいくものだろうか。

自分の考えは、経営人材とは事業の成功に必要な資源を調達し適切に配分できること、そのためには事業の成功の必要十分条件を刻々と変化する事業環境の変化を適切かつ適時に察知しあるいは予見し、適応できることが必要だ。

このような人材を座学で育成できるものではないし、修羅場を経験させると言っても、では経営人材として求められるものが例えば「自信」や「胆力」であったとして、その修羅場で自信や胆力が身に着くとも限らない(そのような修羅場を特定するもの難しい)。

ではどうするか。
まず、誰でもが経営人材になれる訳ではないことをまず認識することが先決である。
本人に意欲や決意があること、適性があること、そしてスキルセットをある程度の水準で満たしている人材を選抜する。
この段階で初めて、経営者として派遣するなど実戦経験をさせる。

実戦経験を積むことで、あらためて自分に不足しているスキルが明確になり、そのうちのいくつかは座学で身につけることができるだろう。

このような学習プロセスを回すことによってしか経営人材は育たない。

動的平衡と企業戦略

以前の投稿でも取り上げたが、生物学者福岡伸一氏の「動的平衡:生命はなぜそこに宿るのか」を仕事の必要で読んだが、これは数年ぶりに出会った良著だ。
あらためて企業戦略への示唆について考えを述べてみる。

動的平衡というのは実は自分の分野でも常に考えていることだが、その概念をモデル化し数式でわかりやすく説明する能力は科学者の範であると思う。

生命は合成より分解により力を注ぐ。それはエントロピーの増大つまり死へ向かう方向に抗うためであると。

企業も生命体である。戦略とは事業環境(外部環境、内部環境、あわせて3C(Company, Customer, Competitor)を的確にかつ適時に把握し適応するためのインテリジェンスである。

そして、外部環境と内部環境の間には実は明確な境界はなく、企業は開かれた系(システム)であり、そして外部環境も内部環境も刻々と変化し、したがって常に揺らいでいるのであって、企業の存在というのは動的平衡を保たなければならないものである。

生命は合成より分解により力を注ぐということを企業にあてはめて考えると、合成というのを既存事業の拡大であったり新規事業領域への進出と考えた場合、分解というのは捨てること、壊すことである。

戦略とは捨てることである、というのが持論であるが、動的平衡を保ち死を免れるためには、捨てることにより企業は力を注がなければならなないということにもなる。

そして、実際に捨てることは難しい。認知バイアスというのがそこに働くし(今持っていないものを得られないことより、今持っているものを失うことを人間は恐れる)、既得権益というものがあるからだ。

筋トレしながら計算

知的生産性向上のため、週4~5でジムに通っている。
オレンジセオリーである。
フロアでのトレーニングは、ダンベルを使ったりコア(体幹)だったり、セットで行なうが、10回とか12回とか20回とか繰り返すことが多い。
普通は1,2,3,4,...と自分で数えるが、ふと、「これではつまらないな」と思った。
そこで、フィボナッチ数列F_nを思いついた。
ちなみにF_n+1=F_n+F_n-1(n=1,2,3,4,...; F_0=0, F_1=1)である。
1,1,2,3,5,...と続くので最初は楽だが、その後8,13,21,34,55(10番目)と増え方が加速し、20回まで数えると6765になる。
筋トレはゆっくりやる方がよいので、これぐらい数が大きい方がむしろ良いのである。
バリエーションとして、累乗というのもやってみた。
2の自然数乗である。
2,4,8,16,64,...,1024(10番目)なので10回の繰り返しまでは楽である。が、20回となると2^20=1,048,576なのでかなり時間をかけることになる。
3の自然数乗となると、3^20=3,486,784,401なので、周りからみるとかなりゆっくりやっているように見えるだろう。負荷もかかってよい。
自分を追い込みたい方におすすめである。

RACIチャート

プロジェクトマネジメントのプロフェッショナルの間ではポピュラーなツールに、RACIチャートというものがある。
実務でも何度か使ったことがあるが、これはパワフルなツールである。
R=Responsible、A=Accountable、C=Consulted、I=Informedのこと。
要は、プロジェクトのタスク、メンバ毎に、どのメンバがR(実行者)、A(オーナー)、C(相談相手)、I(周知対象者)かということを明確にする、要は役割分担を明確にするということである。
通常、役割分担というと、「誰がどれをやるか」を決めるにとどまるが、RACIは違う。誰がやるかだけならRのみである。
そうではなく、最終的にそのタスクの完了と品質担保の責任を持つのは誰なのか、そのタスクを行なうに必要なリソース(ヒトモノカネ)の裁量を有するのは誰なのか、誰が専門的な助言を行なうのか、そして直接実行には携わらないが事後的にでも情報を得ておく必要があるのは誰なのか、を明確にしておかないと、プロジェクトは成立しない。
大規模な、複雑な、高度なプロジェクトになればなるほどこれは重要である。むしろ必須でさえある。
古くからある基本的なツールだが、どんな大規模な複雑な困難なプロジェクトでも、このツールの活用のような基本的なことの積み重ねである。そして、ツールを正しく使うことは必須(RACIチャートは多くの場合誤用されている)。
そして、それらツールやテクニックを体系的にまとめたものがPMBOK(Project Management Body of Knowledge)である。
PMP (Project Management Professional)資格を取るには、PMBOKの正しい理解が求められる。
日本ではまだまだ認知は低いが、広く認知され活用すべき知識体系である。
どんな分野でも業界でも使える汎用的なものであるのだから。

エネルギー密度の高い演奏 藤田真央

藤田真央くんのチャイコフスキー国際音楽コンクールファイナルでのチャイコフスキーピアノ協奏曲1番とラフマニノフピアノ協奏曲3番からはエネルギー密度の高さを感じた。
表現力というものはイマジネーションと熱意があってそれについてくるもの。
なによりも、聴いているこちらが幸せになるような演奏。
藤田真央くんは真に自分も楽しんでいるし、それがストレートに伝わってくる。
なんと自己効力感の高いピアニストだろう。
こういうピアニストに出会えた我々も幸せだ。

ポリクロニック

空間にユニバース(universe)やマルチバース(multiverse)があるように、時間にもモノクロニックとポリクロニックという概念がある。
現代人の我々、それも都会でビジネスをしている人間にとって、時間は過去から未来へ一定の速度で不可逆的に一方向に流れるモノクロニックなものであり、それ以外の何ものでもない。
PCやスマホのカレンダーにクライアントやチームとのミーティング設定を記し、それに従って動いている。TVを見るのもコンサートに行くのも唯一の時間軸で動いている。モノクロニックに支配された生活。

しかしそれは実は特殊な概念であり行動かもしれない。
鷲田清一さんはこう書かれている(抜粋)。
「人はいろんな時間を多層的に生きるポリクロニックな存在である。仕事にあたりながら、心ここにあらずといった感じで別の思いをずっと引きずったままのときがある。手が止まり、放心したかのように思い出に浸るときもある。ずっと心に引っかかるものがあって、一つのことに集中できないことがある。過去へと流れ去ってくれないトラウマに心がじくじく疼(うず)いたまま、というときもある。そのように意識がさまざまの時間に引き裂かれ、一つにまとまらないというのは、さしてめずらしいことではない。」
(2018/1/7 日経新聞

現代でも、国によっては必ずしもモノクロニックに人々は考え行動してはいない。
自分にしても、昔のことを思いを起こしたり未だ来ぬ未来に思いを馳せることもある。
時間について哲学したのはフーコーだけではない。
時間という概念に関しても柔軟に自由に考えていいのではないか。
ふとそんなことを思った。

【近刊チェック】読破できない難解な本がわかる本

自分にしては珍しく、目的意識もなく池袋の三省堂にふらっと立ち寄り、平積みにしてあったこの本が目に止まり、即決で(自分には珍しく)買ってしまった。

読破できない難解な本がわかる本 単行本(ソフトカバー) – 2019/3/28 富増章成 (著)
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ここで取り上げられているのは、世界の名著とされる60の書で、聖書、論語、般若心経なども含まれている。
図解付きでわかりやすい。

たとえば、難解で有名なカントの「批判」三部作のひとつ「実践理性批判」の件では、こんな絵が添えられ、3ページで解説している。エッセンスを汲み取るには十分だ。

自分の主義主張としては、古典の名著はできるだけ原著(しかし実際には岩波文庫にお世話になることが多い)をじっくり熟読することなのだが、しかしそれもなかなか骨の折れることである。
また、熟読するにしても、まずは大要を理解してから、というのも効率的であることもある。

著者の富増さんは、これまでにも哲学やキリスト教を図解し説明する本を多く書かれているので、それの集大成といったところだろうか。

現代人が備えておくべき教養を深める上で、おすすめの一冊である。

藤田真央とシシキン

現在開催中のチャイコフスキー国際音楽コンクール、ピアノ部門でファイナル進出した藤田真央のセミファイナルの演奏を全て聴いた。
スクリャービンピアノソナタ2番、ショパンピアノソナタ3番、プロコフィエフピアノソナタ7番の3曲、1時間弱のプログラム。
引き込まれる。magnetizing, rivetingという形容に相応しい演奏。
5月に彼と伊藤悠貴のデュオを紀尾井ホールで聴いたが、彼のイマジネーションはとても豊かだし互いに引き合う天才の見事なアンサンブルだった。

もう一人今回のチャイコフスキーコンクールで着目しているのがシシキンである。
ショパンスケルツォ2番、プロコフィエフの作品2も彫琢された演奏だが、ラフマニノフピアノソナタ2番も、あらためてその魅力を存分に見せてくれた。

2人ともエフィカシーが高い。
とても影響を受けた。